松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年4月2日(日)
説教題「神に希望をかける」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章8~11節

兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。

旧約聖書: 列王記上19:1~8

先週の木曜日、教会のオリーブの会で、パウロのことが話題になりました。それもパウロはすごく苦労を重ねた人だ、という話題です。その時に私が、パウロが書いた手紙から、こんな箇所を朗読しました。

「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(Ⅱコリント一一・二三~二八)。

コリントの信徒への手紙二の第一一章に書かれている言葉です。やがて私たちもここから御言葉を聴くことになります。この朗読をお聴きになられていたオリーブの会の出席者もそうでしたが、驚かれると思います。よくこんなに事細かに覚えていた、そのようにも思えますが、パウロはすごい人です。これらの苦難を味わい尽くした人です。

しかしパウロは続けて、こうも言っています。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(Ⅱコリント一一・二九)。なぜパウロがこんなにも苦難を味わっていたのか、その理由がここに書かれています。とても大事な言葉です。弱っている人がいる。だから私も弱くなる。つまり一緒に労苦をすると言うのです。

私たちは多かれ少なかれ、必ず苦難を味わうことになります。パウロほどの苦難を味わっている、そういう人はなかなかいないかもしれません。しかし苦難をまったく味わっていない、人生幸せなことばかり、そういう人がいたら、教えてもらいたいと思いますが、そんな人はいないわけです。

パウロが今日の聖書箇所で挙げている苦難もまた、深いものでありました。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。」(八節)。パウロの具体的な苦難の体験が挙げられています。アジア州とあるのは、今のトルコのギリシアよりの地方のことで、そこの中心的な都市がエフェソになります。

コリントの信徒への手紙一には「エフェソで野獣と闘った」(Ⅰコリント一五・三二)とあります。使徒言行録第一九章には、エフェソでの騒動のことが記されています。パウロは偶像を礼拝してはいけないと伝道していきましたが、偶像製作者からの反発を受けてしまいます。自分たちが作った偶像が売れなくなるわけですから。群衆が大騒ぎをし、町中が混乱してしまった。そんな苦難をもパウロは味わいました。

ここでパウロが言っている苦難は、具体的にどんなことなのか。コリントの信徒への手紙一の体験なのか、使徒言行録の体験なのか、それともその他の体験なのか、そのことはよく分かりませんけれども、パウロは生きる望みさえ失っている、そんな状況でありました。

今日の聖書箇所の九節のところには、「死の宣告を受けた思いでした」とあります。かつての口語訳聖書では、「心のうちで死を覚悟し」となっていましたが、新共同訳聖書の方が、訳としても改良され、原文の意味合いをよく出していると思います。死の宣告、つまり死刑宣告を受けた。そしてあとはその死の瞬間が来るのを待っている。そういう状態のことです。

もう死ぬしかない、死をただ待っているだけ。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の列王記上に出てくる預言者エリヤもそうでした。エリヤは預言者の中でも、最も偉大な預言者という評価を受けているくらいの人です。主イエスの時代もそうでありまして、預言者と言えば、真っ先に出てくるのがエリヤです。

そのエリヤのことは、列王記上の第一七章から第一九章にかけて、集中的に出てきます。最初の二章では、エリヤの力強い歩みが記されています。第一七章では、エリヤを通して様々な奇跡がなされていきます。周りの人たちは、本当にこの人が神の人だということが分かっていくわけです。第一八章では、数百人のバアル預言者、偶像礼拝の指導者たちのことですが、そういう数百人の人たちを相手に、たった一人で立ち向かい、見事に勝利する。そういう話が記されています。

ところが第一九章に入ると、エリヤの力強さが急に萎えてしまいます。イゼベルという人物が出て来ますが、この人は王であったアハブの妃です。実権を握っているようなところがありましたが、このイゼベルがエリヤのことを殺そうと図るのです。こういう命令が出されたのを知ると、エリヤは急に弱気になってしまうのです。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王記上一九・四)。

死の宣告を受けたかのように、もうあとは死を待つばかり、そんな状況に陥ってしまいます。しかし神はエリヤに力を与えられます。水や食料を与え、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」(一九・七)という言葉までいただきます。エリヤはこのようにして「耐え難い」歩みをなしていくことになります。

パウロもエリヤと同じように、この出来事をきっかけにして、死の宣告を受けた思いになりますが、こう続いていきます。「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。」(九節)。自分も頼りにすることができない。もちろん人や物も頼りにすることができない。神に頼る以外ない状況になったのです。

このことに関してですが、マタイによる福音書第五章三節にこうあります。「心の貧しい人々は、幸いである。」(マタイ五・三)。マタイによる福音書の第五章から第七章は、山上の説教と呼ばれている箇所で、有名な主イエスの教えがたくさん出ています。その最初の言葉です。同じことを伝えているルカによる福音書では「心の」という言葉がなく、「貧しい人々は、幸いである」(ルカ六・二〇)となっています。

「心の貧しい」あるいは「貧しい」とは何を意味しているのでしょうか。わたしたちはどういう時に、自分の貧しさを知るでしょうか。いろいろな貧しさを考えることができます。

私たちが今用いている新共同訳聖書が世に出版されたのは、もうだいぶ前のことになりますが、新共同訳聖書が出される直前に、試作版というような形で、「共同訳」というものが出されたことがあります。それがあるから「『新』共同訳」と言うわけですが、「共同訳」聖書で、マタイによる福音書第五章三節はこう訳されていました。「ただ神により頼む人々は、幸いだ」。

貧しいという言葉がなくなっています。元の聖書の言葉には、貧しいという言葉がはっきり使われているわけですが、「共同訳」ではそれを取って、心が貧しいとはどういうことか、そのことを解釈して、こう訳したのです。つまり、貧しさゆえに、自分にも頼れない、人にも頼れない、物にも頼れない。もはや神にしか頼れない。だからその人は幸いだ、ということにつながっているのです。

「共同訳」では、少し意訳をしすぎたところがありますので、「新共同訳」では元の言葉を生かす訳をしているわけですが、解釈としては、そんなに間違ったことを言っているわけではないと思います。まさにパウロの状況がそうだったわけです。四方八方、すべてが塞がってしまった。この手もあの手も駄目だった。こっちの道もあっちの道も駄目だった。すべてが塞がり、死の宣告を受けた思いにまでなってしまった。しかしよく考えると、上が開いていたのです。

九節の終わりのところには、「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」とあります。貧しさを味わい尽くしたパウロです。もう神以外には頼るべきところはなかった。しかしその神は、死者を復活させる力をお持ちの神でありました。

新約聖書は、特にパウロの手紙などそうですが、キリストが死者の中から復活したことが丁寧に書かれています。キリストは十字架で死なれます。そして三日目にそこからお甦りになられます。キリストご自身の力によって復活したのではありません。そのあたりは聖書は非常に丁寧に書かれています。キリストは死者の中から「復活させられた」と書かれています。神によって、復活させられたのです。それと同じ力をパウロも受けることができました。死の宣告を味わったパウロが、その死の中から救い出されたのです。

続く一〇節の最初のところには、「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう」とあります。ここには救うという言葉が二回出て来ますが、過去形と未来形の形で使われています。過去に神が救ってくださった、だから将来も救ってくださるだろう、ということです。パウロは救いの原体験を持っていました。一度、その救いを味わった者の強さがここに表れています。

聖書の信仰は、実はいつもそうなのです。旧約聖書を読んでいると、繰り返し、出エジプトの出来事が出て来ます。一見すると、何の脈絡もなく、突然、出エジプトの出来事が出てくる場合すらあります。イスラエルの民にとって、エジプトでの奴隷生活から、神の導きによって救い出された出来事です。

しかしこの出エジプトの出来事は、イスラエルの民にとっての救いの原体験でした。過去起こった救いの出来事。過去にそのように神が救ってくださったのだ。その出来事が突如出て来て、今回も救ってくださるにちがいない。これからも救ってくださるに違いない。そういう形で繰り返し出てくるのです。イスラエルの民にとっても、またパウロにとっても、救いの原体験があるということに関しては、同じだったのです。

一〇節の後半では、「これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」とあります。信仰は賭けである。ある人はそう言います。賭けと言うと、ばくちのような、危険な賭けを思い浮かべてしまかもしれません。しかしこの賭けは、人間にとって最も安全で安心な賭けになるのです。

パスカルという人がいます。この人は哲学者であり、また信仰者でもあった人です。パスカルの著書、『パンセ』が有名です。いろいろな有名な言葉が記されています。その『パンセ』の中で、パスカルは、神は存在するのかしないのか、その賭けについての考察をしています。パスカルの時代というのは、神の存在が自明ではないような時代になってしまい、そういう時代背景のもとに、パスカルはこのことを論じていきました。

当たり前のことですが、神が存在することも、神が存在しないことも、どちらも証明することができません。それは信じる、信じないの問題になります。だから賭けということになるわけですが、パスカルは読者に迫っていきます。

「さよう。だが、賭はしなければならない。これは自分勝手にするのではない。きみはすでに船出したのだ。では、どちらをとるか? そこだ。えらばなければならないとしたら、どちらに利益が少ないか考えてみよう。…神はあるという表のほうを取って、損得をはかってみよう。二つの場合を見つもってみよう。もし勝ったら、きみはすべてをえるのだ。負けても、何もうしないはしない。だから、ためらわず神はあるというほうに賭けたまえ」(パスカル『パンセ』、由木康訳、白水社、一〇二頁)。

パスカルは理性をもって、この問題に取り組んでいきます。そういう時代であり、哲学者として、そして信仰者として、どうしても神を信じる信仰を伝えたい、そういう思いからこのように書いていきました。パスカルにとって、神を信じるとは、ちっとも危険な賭けではありませんでした。むしろ損得勘定から考えても、理性的に一番合理的なのが、神を信じるということだったのです。

パウロも神に賭けています。希望を神にかけている。神に望みを置いているのです。ちっとも危険な賭けではありません。むしろ、自分を含めた人や物を頼りにする方が、はるかに危険な賭けです。四方八方が塞がり、人や物が倒れる時が必ずやって来るのですから。しかし神に賭ける者はそうではありません。

今日の聖書箇所の最後の一一節にはこうあります。「あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。」(一一節)。四方八方が塞がっていても、上が開いている。神に祈ることができるのです。それが祈りの力です。

この一一節のところには、「多くの人」という言葉が二度、出てきます。最初の「多くの人」という言葉は、実は元の言葉では「多くの顔」という言葉になっています。多くの面々と訳してもよいかもしれません。なぜパウロはそのような面白い表現をしているのか。ある聖書学者は、いろいろな可能性を考察した後に、このように言っています。「この手紙の中にこれから書かれていくように、パウロは、感謝に満ちて唇から讃美の言葉が出ている多くの上を向いている顔を思い浮かべていたのではないか」。それが顔という言葉を使った理由だと言うのです。

パウロは一一節のところで、あなたがたも祈りに加わって欲しいと言います。苦難の中、死の宣告を受ける。それでも顔を受けに上げて祈ることができます。その祈りは必ず感謝で終わります。多くの人が、多くの顔がそのようになることができる。それが、神に希望をかけるということなのです。