松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年3月26日(日)
説教題「慰めは神から来る」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章3~7節

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。

旧約聖書: イザヤ書40:1~11

「話せば分かる」という言葉があります。本当でしょうか。日本の歴史において、「話せば分かる」と言ったのに、「問答無用」と言われてしまった、そのような歴史があります。いろいろな場合があるでしょうけれども、話したところでますます理解し合えないことが分かった、そういうケースもあるかもしれません。

両者が有益な話しをするために、少なくとも共通点を探らねばなりません。パウロとコリント教会の両者がいるわけですが、両者の間は溝が深まっている状況でした。コリントの信徒への手紙二のある注解書には、こう書かれています。

「Ⅰコリント書の語調は、小さな怒りの爆発を除けば、穏やかで慎重であり、論じられている事柄は明確に描かれ構成されている。そのような霊性な論理は、Ⅱコリント書には見られない。傷つけられたという感じが手紙に満ちており、パウロがその下で苦心している緊張感が、脱線や繰り返しを引き起こしたり、説明しがたい変化を生じたりする連想のつながりに認められる」(『叢書新約聖書神学⑦第二コリント書の神学』、一二頁)。

今日の聖書箇所に、「わたしたち」「あなたたち」という言葉が何度も出て来ます。もうすでに先週の聖書箇所である二節にも出て来ていました。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(二節)。

「わたしたち」であるパウロたちと、「あなたたち」であるコリント教会の人たちとの間には、平和がない状況でした。先週の説教でも触れましたが、パウロはコリント教会に少なくとも五度、手紙を書きました。少なくとも三度の訪問をしました。パウロはどのような思いだったでしょうか。手紙の文体も乱れるくらい、冷静にいることができない状況でした。

そんな状況の中、パウロはなんとかコリント教会の人たちと言葉を通じさせるために、今日の聖書箇所の内容を、手紙の最初のところに書いていきました。「話せば分かる」、パウロは本当にそのように信じていました。そのような希望を抱きながら、手紙を書き始めました。話が通じるために、何が共通点なのか、そのことをまず確認していかなければなりません。パウロにとって、その共通点とは、「慰め」だったのです。

慰めという言葉が、本日、私たちに与えられた聖書箇所ではたくさん出て来ます。今日の聖書箇所でこんなにもたくさん使われている言葉であるにもかかわらず、しばらくこの手紙では慰めという言葉が今日の聖書箇所以降、消えます。そしてまた突然、第七章の途中から、集中的に慰めという言葉が出てくる。そしてそこで集中的に再び語られた後、また消えていく。そんな言葉として使われています。

しかしこの手紙では、慰めというのはとても大事な言葉です。もちろん聖書全体においてもそうです。私たちも一般的な日本語として、慰めという言葉を使います。慰めとは何でしょうか。もしかしたら、何か弱々しいイメージを抱くこともあるかもしれません。自分はそんな慰めなど要らないと反発する人もあるかもしれません。

数十年前の話ですが、ある牧師が教会の中で、慰めをテーマに勉強会をしたら、教会員の中から反発の声が挙がったそうです。そんな弱々しい言葉を使うことへのためらいがあったようです。しかし聖書の中で言われている慰めとは、日本で使われている慰めとは、多少、意味合いの異なるところがあります。

慰めという言葉に関して、聖書の事典を引いてみますと、こうあります。「その根本語義が全く世俗的なものであるにもかかわらず、「この上なくとらわれない形で新約の救いの出来事を証言するのに役立てられて」おり、しばしば神学的な重要な意味を担うにもかかわらず、容易かつ多方面に順応できる能力を失わず、特定の意味に固定されてしまっているような箇所は一つもない」(『新約聖書釈義事典』Ⅲ、四九頁)。

なんだか何を言っているのか、分からないようなところがありますが、要はこういうことです。この慰めという言葉は、まったくの世俗的な言葉でしたが、聖書で使われるようになり、多様な意味を持つ、大変重要な言葉となったということです。

もう少し考えてみましょう。慰めという言葉は、元の言葉では、二つの言葉の合成語になっています。「傍らに」と「呼ぶ」という言葉の合成語です。つまり、自分のところに誰かを呼ぶ、あるいは自分が誰かのところに呼ばれる。両者が寄りそうわけです。

寄り添って何をするか。一方が困っているとすれば、他方が「助ける」。一方がどうしていいか分からずに迷っているとすれば、他方がこういうふうにしたらよいと「勧める」。一方が悲しんでいるとすれば、他方が「慰める」。「慰める」という言葉だけではなく、「助ける」「勧める」というように、多様な意味を持つ、しかも大変大事な言葉として、聖書の中で使われているのです。

慰めという言葉の元の意味としては、そういう意味があるわけですが、私たちにとって傍らにまずいてくださるのは誰でしょうか。神であり、主イエス・キリストです。三節にこうあります。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。」(三節)。この箇所は神への讃美ですが、神が「慰めを豊かにくださる」がゆえに、讃美をしているわけです。

続く四節にもこうあります。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」(四節)。この節でも、慰めが神から来るのであり、慰めの源が神であることが言われています。

本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の箇所もまた、慰めが神から来ることが記されています。先ほど朗読したのは、イザヤ書第四〇章です。イザヤ書の第三九章と第四〇章の間には、百年ほどの隔たりがあると言われています。第三九章の最後のところに、ヒゼキヤという王様が出て来ます。「ヒゼキヤはイザヤに、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えた。彼は、自分の在世中は平和と安定が続くと思っていた。」(イザヤ三九・八)。この言葉からすると、国としては傾いていたかもしれないけれども、まだかろうじて存続していたことになります。

ヒゼキヤ以降、何人かの王が登場します。それらの王のたちの王としての在位期間を合計していきますと、イザヤ書第四〇章の状況になるまで、およそ百年の期間を定めることができます。第四〇章では、バビロン捕囚というものが起こっている最中です。バビロンという国に滅ぼされて、国の主だった人たちがバビロンに連れて行かれ、自分たちの故郷へ帰る帰還の道をまったく見いだせない状況でした。

そういうまったく希望のない状況の中に、預言者の言葉だけが響き渡ります。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」(イザヤ四〇・一)。慰めという言葉から始まります。三節には「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とあるように、神が帰還の道を荒れ野に備えてくださる、そのようにして慰めを与えてくださることが言われています。

そして八節です。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ四〇・八)。何もなくなった状況においても、神の言葉だけはなくならない。そのようにして、神が傍らにいてくださり、神が慰めを与えてくださることが語られているのです。

コリントの信徒への手紙二に戻りますが、今日の聖書箇所の五節にこうあります。「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」(五節)。ここではキリストが傍らにおられますが、キリストが傍らにいて慰めてくださる。それだけではなく、傍らにいて一緒に苦しむことも言われています。今日の聖書箇所には、慰めという言葉だけではなく、苦難、悩み、苦しみ、そういう言葉も多く用いられています。

パウロもそうだったように、私たちにも苦難、悩み、苦しみがあります。なぜ私たちにはこのような苦しみがあるのでしょうか。苦しみの理由はやはりよく分かりません。しかしその理由は分からなかったとしても、私たちが苦しむ苦しみは、キリストの苦しみとは無関係ではないと聖書は言います。それどころか、この五節では、キリストの苦しみが満ちあふれて私たちのところに来ていると言うのです。キリストが傍らにおられ、苦しんでくださる苦しみです。苦しみを積極的に考えることができるのです。

今日の聖書箇所だけではなく、聖書には、苦難、悩み、苦しみという言葉がたくさん出てきます。しかし苦しみはただ苦しんで終わりというわけではありません。そうではなく、苦しみから始まり、忍耐や試練を通り越し、慰めや希望が与えられる。そういう信仰の筋道として、語られているのです。

ペトロの手紙一に、こういう言葉があります。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」(Ⅰペトロ四・一二~一三)。驚くべき言葉です。試練や苦しみを喜べというのです。それはキリストと一緒に苦しむことなのだから、というのがその理由です。そしてそれだけではなく、苦難が喜びへと変えられる約束がなされている、それもその理由です。

キリストから慰めも苦しみもあふれている。私たちはキリストと一緒に、喜びも悲しみも味わうのだと言うのです。このことについて、ある説教者がこんなことを語っています。マタイによる福音書に、有名な聖書の言葉ですが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ一一・二八)という主イエスの言葉があります。これには続きがあります。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(一一・二九~三〇)。

ここで使われている軛という言葉、皆さまはどういうものをイメージされるでしょうか。今の時代の軛もそうかもしれませんが、主イエスの時代の軛は、牛などの家畜につける際は、だいたい二頭の牛に軛をつけたようです。二頭の牛が一緒に動くように、一緒に動いて畑を耕すなどの力仕事をできるようにした、それが軛です。

主イエスは「わたしの軛」と言われています。そうなると、軛の一つは主イエスがつけていてくださる。そしてもう一つの軛には、私たちがつけられていることになります。主イエスの軛を負うとは、そういうことです。主イエスと共に、慰めももちろん共に負うし、それだけでなく苦しみも共に負う。ある説教者がそのようなことを語っています。

コリントの信徒への手紙二の今日の聖書箇所が語っているのは、慰めにしても苦難にしても、まずキリストからそれらのものが「わたしたち」に溢れてくる。その同じ慰めや苦難が、今度は「わたしたち」だけでなく「あなたがた」とも一緒に共有することができる。そういう流れで語られているのです。

今から四年半以上前のことになりますが、私たちの教会に加藤常昭先生をお招きして、教会にとって大事な「慰め」を学びました。二〇一二年七月のことになります。今日の聖書箇所は、七月の第一主日に私も説教しましたし、加藤先生が来られた七月の第四主日にも同じ個所から説教をしていただきました。

そしてその日の午後には、加藤先生が書かれた本、『慰めのコイノーニア』という本から、聖書が言っている慰めについて、学びました。今後の松本東教会の歩みを考えてのことでありましたが、その時の学びを今なお覚えている、覚えていないにかかわらず、今も私たちの教会の中に生かされていることだと思います。

加藤先生から学んだことであり、加藤先生の本のタイトルにもなっている言葉ですが、「コイノーニア」という言葉があります。これは実は今日の聖書箇所でも使われている言葉です。七節にこうあります。「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。」(七節)。

「苦しみを共にしてくれている」という言葉がありますが、これは「苦しみのコイノーニア」ということです。その後の「慰めをも共にしている」というのも「慰めのコイノーニア」です。「共同体」と言ってもよいわけですが、きちんとした共通の土台があるわけです。その土台とは何か。キリストの軛を負っていること、キリストと共に苦しみ、慰めを受け、その同じ苦しみ、慰めが「共同体」の中で分かち合われていることです。

加藤先生の『慰めのコイノーニア』の中で、こんなエピソードが記されています。加藤先生は牧師としての駆け出しの時代、トゥルンアイゼンという人が書いた『牧会学』というドイツ語の本を翻訳なさいました。その本の中に書かれていることですが、牧師は信徒から話を聞くときに、向かい合って座るべきではない。そうではなく、一緒に並んで、同じ方向を見て座った方がよい。本の中にそういうことが書かれていました。

そしてその後、加藤先生が実際にドイツに行き、トゥルンアイゼンと初めて会った時のことです。会うなり加藤先生の横に腰かけて、母国語ではないドイツ語の話を並んで聞いてくださった。そんなエピソードが記されています。なぜトゥルンアイゼンは向き合って座らず、並んで座ったのか。それは、同じ神に向かい合う仲間として、並んで座るのです。二人の視線の先には、同じ神がおられる。そのようにして、共にキリストの苦しみを負い、キリストの慰めを分かち合うのです。

教会形成というのは、まさにこのようになされていくのだと思います。教会を建てていく筋道がここに表れています。キリストがまずわたしと同じ軛を負ってくださる。わたしもキリストと同じ苦しみ、慰めを受けることになります。今度はわたしからわたしたち、あなたたちへと同じ苦しみ、慰めが広がっていく。それが共通の土台です。そのようにして教会が建てられていきます。

この意味で、教会は本当に建て上げなければなりません。造り上げるのは、粘り強い忍耐と長い時間が必要です。壊すのは一瞬で済むかもしれませんが、建てるための忍耐が必要です。苦しみも必要です。そしてその先には慰めが与えられます。キリストが共に軛を負ってくださるのです。

パウロもコリント教会に対して、悩み、苦しみました。手紙を書いている今がまさにそうでした。しかし必ずコリント教会の人たちと「話せば分かる」、そう信じてこの手紙を書きました。キリストと共に軛を負っているからです。キリストと同じ苦しみに与り、同じ慰めを受けるからです。私たちもまったく同じなのです。