松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年4月30日(日)
説教題「支配者ではなく協力者になろう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章23~24節

神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。

旧約聖書: 詩編127:1~2

「キリストクラシー」という言葉があります。私がこの言葉を初めて聞いたのは、十年ほど前のことになります。ある講演の中で使われていた言葉です。造語です。聖書にこの言葉があるわけではありませんが、とても聖書的な言葉であり、私たちの信仰にとっても大事な言葉だと思います。

「キリストクラシー」という言葉は、当然のことながら、「キリスト」と「クラシー」という二つに分けることができます。「クラシー」というのは、新約聖書の元の言葉であるギリシア語で、「支配」を意味する言葉です。「キリストクラシー」というのは、キリストによる支配ということを意味しています。

この「クラシー」という言葉を用いて、様々な言葉が造られています。例えば、二十世紀の前半に造られた言葉として、「テクノクラシー」という言葉があります。テクノというのは、テクノロジーのことで、科学技術のことを表しています。科学技術がどんどん発達する世の中の状況として、科学技術が世を支配している、そのことを「テクノクラシー」という言葉で表したのです。

「クラシー」ということで、最も定着している言葉は、「デモクラシー」でしょう。民主主義のことですが、民が支配するという意味です。ある一人の王や皇帝が治める絶対君主主義ではなく、国民が支配する。それがデモクラシーであり、国民が支配するための体制をきちんと構築しているのが、民主主義ということになります。

それでは教会はどのような体制で治められているのでしょうか。誤解されることもありますが、教会は「デモクラシー」ではありません。「牧師クラシー」でも「教会員クラシー」でもありません。今日はこの後、教会総会を行います。教会総会や、あるいは毎月行われる長老会では、一見すると「デモクラシー」のようになされているように見えるかもしれません。賛成か反対か、挙手をしたりして、たいていの場合は過半数を取った意見が採用されます。

しかし、教会総会や長老会は、自分の意見や考えで表明して、挙手をして、過半数を決めているわけではないのです。大事なのは、自分の考えではなく、キリストがどのおようにお考えになっているか、ということです。キリストのお考えや、神の御心を問いつつ、発言や挙手をする。このことが大事なのです。そしてこれがまさに、「キリストクラシー」の要になると思います。

今日の説教の説教題を、「支配者ではなく協力者になろう」としました。パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙から、御言葉を聴いています。パウロが書いた言葉の中に、「支配」という言葉が出てきますが、パウロはまさに「キリストクラシー」を考えているわけです。自分がコリント教会の初代牧師として、この教会を自分が支配すると考えているわけではない。コリント教会の誰か有力者が支配する教会を考えているわけでもない。そうではなく、神が支配される、キリストが支配される教会を取り戻そうとしているのです。

今日の聖書箇所はコリントの信徒への手紙二の第一章二三~二四節という短い箇所です。最初の二三節にこうあります。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」(二三節)。パウロはコリント教会の人たちに、自分が取った行動が神の前に潔白であり、人間的な打算や下心があったわけではないことを言っています。

パウロがコリント教会に再び行こうと計画したことが、一五~一六節に記されています。「このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。」(一・一五~一六)。

ところがこの計画は、断念せざるを得ない結果になってしまいました。詳しい理由は書かれていませんが、どうもパウロの訪問が歓迎されていないことが分かった。打算や下心があると誤解されてしまったようです。そこで、パウロは迷った末に、この時はこの計画を断念することにしました。

私たちも計画を立てます。しかし計画を変更せざるを得ない時があります。今行くべきなのか。それとも後で行くべきなのか。それとも行かないでおくべきなのか。いろいろなことを悩み、迷いながら、決断をしていかなければなりません。私たちはどのように決断することができるでしょうか。

おそらくパウロは、決断するにあたって、長い苦しみの祈りの中で、それも神の御心を問いながら、決断していったと思います。そうでないと、二三節最初の言葉は出てこないと思います。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが…」(二三節)。もしもまったく祈らない人がいたとして、あるいはほとんど祈らない人がいたとして、「私は神を証人に立てて、命にかけて誓いますが…」などと言ったら、それはおかしいのです。

この二三節に、「神を証人に立てて」とあります。元の言葉では、証人として神さまを呼ぶというような意味です。パウロがきちんと神の御前に立っているということです。
パウロはそのようにして、神の前にきちんと立っていることを自覚しています。そしてコリント教会の人たちにも、神の前にきちんと立ってもらいたいと思っています。いや、すでにコリント教会の人たちも神の前に立っていることを、きちんと思い起こしてわきまえて欲しいと思っています。

パウロもコリント教会の人たちも、神の前に立っている。私たちに、何か問題が起こった時に、どのように解決しようとするでしょうか。まずは自分の力であれこれやってみて、何とか解決しようとするかもしれません。解決することができればよいのかもしれませんが、解決できずに、どうにもならず、ますます問題が深くなることもあるでしょう。

問題解決をしたい、自分の気持ちもモヤモヤしている。迅速に解決したい。自分の力ですぐに、ということに、どうしても私たちはなりがちです。しかし一番の近道は、パウロがここで言っていることなのです。急がば回れ、ということになるかもしれませんが、神さまの前に立つということです。まず、自分が神の御前にきちんと立つ。そして相手にも、神の御前に立ってもらう。遠回りのようですが、それが一番の近道であり、一番の解決方法なのです。

問題となる相手が、キリスト者でない場合、相手に神の前に立ってもらうことが、難しい場合もあるでしょう。しかし少なくとも、自分が神の前に立つことから始めなければなりません。そのことから始めるのは遠い道を歩いていかなければならないようですが、それが一番の近道で、安全で、私たちの歩くべき道です。

続く二四節にはこうあります。「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。」(二四節)。ここに「信仰」という言葉が二度、使われています。

ある教会での話です。信仰を求めて、求道中の方がおられました。教会の礼拝に出席したり、家庭集会に出席したり、牧師との学びも始めました。ところが、どうしても信じることができない。信仰を持つことができない。そのことに悩んで、ある時、牧師に相談をします。「どうしても自分は信仰を持つことができないのですが…」。そうしたら牧師がびっくりして、「あなた、信仰を自分で持つつもりなの? 信仰は与えられるものよ」という答えが返ってきたそうです。信仰は与えられるものだ、そのことに求道されていた方もびっくりして、しかし考え直し、まさに信仰が与えられ、受洗することができた。そういう話を聞いたことがあります。

パウロがここで書いていることは、「信仰を支配するつもりはなく」ということですが、そもそも支配などできないと考えていたわけです。信仰は私たちが操作したり、手の中に収めたり、持ったりすることができない。コリント教会の人たちがパウロから離れ、神からもキリストからも離れているような状況ですが、そこへ乗り込んで、コリント教会の人たちの信仰を支配することなど、そもそもできないのです。

そうではなくて、パウロは何をしようとしているのか。二四節後半に、「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです」とあります。元の言葉を直訳すると、「なぜなら」という言葉が実はここにあるのですが、「なぜなら、あなたたちは信仰にすでに立っている」、そのことがすでに完了している、ということが語られています。ニュアンスとしては、私たちが信仰を持って立っているというよりは、信仰が私たちを立たせている、ということです。

ある聖書学者が、この箇所の解釈をめぐり、こんなことを言っています。「信仰によって(by faith)というよりも、信仰の中に(in faith)と考えた方がよい」。信仰にすっかり包まれるように、信仰の中に置かれている。そのようにして信仰が与えられるのです。

パウロはこのことを、信仰の支配者ではなく協力者であると言っています。二四節に「協力する者」という言葉が出てきます。これは、ちょっとだけ協力をするというよりも、「同労者」と言った方がよい言葉です。同じ労働にあたる者です。元の言葉では、二つの言葉の合成語になっていて、「共に」という言葉に「業(をする)」という言葉から成ります。「業」とはもちろん「神の業」です。単に相手への協力ではなく、一緒に神の業を、神の働きを行うという意味なのです。

「同労者」、この言葉を私がよく聞くようになったのは、私に牧師になる志が与えられた時のことです。私に牧師の志が与えられた、神学校に入って学びをする、そうなると、多くの牧師たちとかかわりを持つようになります。そういう中、牧師たちから、「あなたも同労者ですね」という言葉を何度も言われました。やがて牧師の務めにあたることになるわけですが、もうすでに「同労者」と見なされている。一緒に神の業のために働く者なのです。

これはなにも牧師だけの話ではありません。キリスト者ならば誰もが「同労者」です。パウロとコリント教会の人たちを「協力する者」、「同労者」と言ったように、神の業を共に担うキリスト者は皆、「同労者」なのです。

このことに関連してですが、先日、ある牧師が書いた文章を読みました。「一緒に歩いてくださる方がいる」というタイトルの文章です。最初のところで、アフリカのことわざが引用されていました。こういうことわざです。「もしあなたが速く歩きたいならば、ひとりで歩きなさい。けれども、もしあなたが遠くまで歩きたいならば、誰かと一緒に歩きなさい」。

この言葉を引用しながら、速く歩くよりも、目的地に着く方がはるかに大事であり、ルカによる福音書第二四章に記されているエマオの途上で、復活の主イエスが、弟子たちの気付かないうちから共に歩いてくださったように、私たちの人生の旅路も、主イエスが共に歩いてくださる。そういう求道者へのメッセージの文章です。

この文章の中にも書かれているように、私たちキリスト者にとっても、ゆっくり歩むことは大事なことなのだと思います。世の中は目まぐるしいスピードで変わっていき、それに合わせるならば、迅速な意思決定で組織は動いて行かなければなりません。そういう世の中ですが、教会は違います。むしろゆっくりであることが求められます。

パウロは計画を断念せざるを得ず、コリント教会の問題を迅速に対応することができませんでした。しかし、コリント教会の人たちと、主イエス・キリストと一緒に、ゆっくりと歩もうと願った。早急に、自分が支配するようにではなく、自分がまず神の御前に立つ。そして相手にも神の御前に立ってもらうのです。

言葉で言うのは簡単かもしれません。しかし実際には、祈りと忍耐と長い時間が必要でありました。パウロはまさにそのことを始め、している最中です。私たちはあまりにも早急に答えを出したがるところがあるかもしれません。しかし、私たちの歩みはゆっくりでよい。主イエスと共に、信仰の仲間たちと共に、ゆっくり歩むのです。私たちは神の業を共に担う協力者、同労者です。その働きの中で、神が必ず私たちに喜びを与えてくださるのです。