松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年4月23日(日)
説教題「神が保証を与えてくださる」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章21~22節

わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。

旧約聖書: イザヤ書61:1~3

唐突な質問かもしれませんが、皆さまは自分のことを愛していると言えるでしょうか。聖書は私たちに、神を愛し、隣人を自分のように愛するように言っています。隣人を、自分のように愛するのです。自分を愛していることが前提になっているかのような言葉です。この言葉に引っ掛かりを覚えている方も多いのです。自分を愛するようにと言われても、果たして自分は自分自身を愛しているだろうか。どうも自分のことを好きになれない、愛することができない、そう思われている方も少なくないと思います。

私が最近読みましたある文章の中に、こんな声がありました。親類の結婚式に招かれて出席をした。結婚する二人のことを見て、うらやましく思った。どうも二人のことをひがんでしまう。一方では二人のことを祝福したいという思いになりながらも、他方ではどうも自分の内に素直に祝福できない思いがある。そういう嫌な思いがあることを認めざるを得ない。そういう自分を好きになれない、自分に嫌気がさしたという文章です。

聖書によれば、私たち人間誰もが罪人です。自分のうちをよく見つめれば、そのことがよく分かると思います。結婚を祝福できない、他人のことを心から喜ぶことができない、隣人への愛に欠如している、そういう罪人であることを、私たちは認めざるを得ません。そういう罪のまま、我がままでよいはずがありません。もっと愛のある人になりたいと願っているところが、多かれ少なかれあるのです。

自分だけを見つめるならば、自分を好きになれない部分が必ずあるのです。そういう場合、自分だけを見つめ続けても結果は同じでしょう。視点を変える必要があります。どのように変えたらよいのか。神がどのように私を見ておられるのか。神がどのようなことを私にしてくださったのか。その視点から見ると、見方ががらりと変わっていくのです。

本日、私たちに与えられた聖書箇所には、神が私たちにしてくださったことが記されています。短い箇所ですので、改めて朗読いたしました。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」(一・二一~二二)。

神とありますが、父なる神のことです。キリストも出てきます。“霊”とありますが、わざわざダブルクォーテーションマークが付けられているように、これは聖霊のことです。父と子と聖霊なる神が出てくる。教会では「三位一体」の神と言っています。

「三位一体」というのは、聖書にはない言葉遣いです。私たちが信じている神とはどのようなお方なのだろうか。教会の人たちが、聖書の様々なところを熟読した結果、神は「三位一体」の神である。数百年かかって、その言葉に辿り着きました。最初からあった言葉ではないのです。

ある人がこのように言っています。「父なる神を信じ、主イエス・キリストの救いがわかり、聖霊によって生きることができれば、それ以上の解説がなくても、別に困らない」(竹森満佐一『正しい信仰』、七八頁)。いくら神について、遠くから論じていても、三位一体は分からないでしょう。そうではなくて、自分が神を信じる者として、自分が神とかかわりを持つ者として考えなければならない。

「父なる神を信じ」とは、私が神を父と信じることです。「主イエス・キリストの救いがわかり」とは、私が主イエスに救われるということです。「聖霊によって生きる」とは、私が聖霊に導かれて生きるということです。すべて私とかかわりを持つ神です。私とどのようなかかわりを持ってくださる神なのか、ということから考えないと、三位一体の神を分かることもできませんし、信じることもできないのです。

このように神と私とのかかわりの中で考え始めると、ものの見方が変わります。父なる神が私を造られたのであれば、何の目的が私に与えられているのだろうか。そのことを私が考え、人生の目的を探求していくことになります。キリストが十字架にお架かりになってまで私を救ったのであれば、私はそれほどまでに愛されているということになります。聖霊に私が導かれているとすれば、自分の力だけで生きているのではないということになります。がらりとものの見方が変わるのです。

今日の聖書箇所では、神が何を私たちにしてくださったと言っているのでしょうか。まずは二一節です。「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。」(二一節)。

ここに出てくる「わたしたち」というのは、パウロたちのことです。一九節を見ると、パウロ、シルワノ、テモテ、その他にもいたでしょうけれども、それらの人たちを挙げることができます。「あなたがた」というのは、コリント教会の人たちです。パウロはコリント教会の創設者でしたが、パウロたちとコリント教会の人たちとの間は、このとき関係がぎくしゃくしていました。その両者が、キリストに固く結びつけられる、それをしてくださるのが神だ、と言うのです。

「わたしたち」と「あなたがた」が結びつく。二一節の後半では、「わたしたちに油を注いでくださったのは、神です」と続きます。二二節もそうですが、「わたしたち」と「あなたがた」が結びついたので、この両者で「わたしたち」になっています。「わたしたち」は油注がれたし、証印を押されたし、“霊”を与えられた。パウロたちだけではなく、コリント教会の人たちを含めた「わたしたち」です。

二三節からは「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」というように、再び「わたしたち」と「あなたがた」に戻りますが、二一節後半と二二節は、「わたしたち」でひとくくりにされるのです。

キリスト者ならば誰もが、油注がれている、ということになります。油を注ぐことは、旧約聖書では特別な職に任職される時に、なされたことです。王であったり、祭司であったり、預言者であったり、そういう職に任じられるときに用いられました。ダビデも油注がれてイスラエルの王にされた。今日の旧約聖書の箇所では、預言者イザヤが油注がれて任職されている、というように読むこともできます。

この油注がれたということですが、実は「キリスト」という言葉は、油注がれた者という意味なのです。二一節を元の言葉で読むと、「クリストス」「クリサス」という言葉が出てきます。偶然というわけではありません。言葉遊びのようですが、もちろん遊んでいるのではなく、この手紙を書いたパウロも明確な意図をもって、似たような言葉を並べたのだと思います。油注がれたキリストに結び付けられて、私たちも油注がれた。そういうことをパウロは言いたのです。それほどまでキリストに結び付けられたということです。

続く二二節にはこうあります。「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」(二二節)。証印というのは、私たちがよく知っている判子を押すことと同じようなことです。判子が押されているならば、その判子を押した人が確実であるということを示すことですが、ここで使われているのは、それ以上に確実だというような意味です。

「証印」という言葉と、“霊”という言葉が結び付けられて語られています。「聖霊の証印」などと言われることもあります。エフェソの信徒への手紙にも、似たような表現が記されています。「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(エフェソ一・一三~一四)。

聖霊で証印を押され、確かな保証を与えられる。贖われて神のものとされ、神の栄光をたたえるようになる。神がしてくださったことから出発し、私たちがどう応答するかということにつながるのです。私は自分では自分のことを好きになれないかもしれません。しかし神がそのようにしてくださった。神にそのようにしていただいたことが分かれば、ものの見方が変わるでしょう。自分への見方も変わるでしょう。私たちはそのようにしていただいた者なのです。

カルヴァンというスイスのジュネーブの教会を改革した改革者がいます。今から四五〇年ほど前になりますが、『ジュネーブ教会信仰問答』というものを書きました。一二~一三歳くらいの子どもから大人になる世代の人たちの信仰教育をするためのものです。問と答えを重ねながら、教会の信仰を伝えている優れたものです。
その最初の問いである問一と答えで、このように始まっていきます。

問一 人生の主な目的は何ですか。
答 神を知ることであります。

人生の「主な目的」というのは、人生で最もメインなということです。それが神を知ることです。どうしてそう言えるのか。続く問二も重要です。

問二 どんな理由であなたはそういうのですか。
答 神はわれわれの中にあがめられるためにわれわれをつくり、世に住まわせられたのでありますから。また、神はわれわれの生の源でありますから、われわれの生を神の栄光に帰着させるのはまことに当然であります。

少し難しいことが言われていると思われるかもしれません。しかし言っていることは単純で、私たちが「神さま、ありがとう」と言うために、神さまを知ることが大事だと言うのです。わたしはこんな罪人で、自分で自分のことを好きになれないような者だけれども、こんな私を救ってくださった。だから「神さま、ありがとう」と言うのです。

「神さま、ありがとう」と言うためには、自分の罪深さを知ったり、イエス・キリストによってどのように救われたり、どのように聖霊に導かれているのか、ということを、知っていかなければなりません。それが『ジュネーブ教会信仰問答』で学んでいくことであり、それが私たちの人生の主たる目的だと言うのです。神さまを知れば、救われて、愛されている自分であることを知ることができるのです。

今日の聖書箇所に戻りますが、今日の箇所において、多くの聖書学者が指摘しているのは、この箇所が洗礼とかかわりがあるということです。キリストと固く結びつけるとか、油注ぐとか、証印とか、“霊”を与えてくださるとか、それらすべてが洗礼にかかわっているということです。洗礼は、救いの確かなしるしです。

教会は、その歩みの最初から、洗礼を重んじてきました。教会の歴史において、洗礼をめぐる論争もありました。ドナトゥスという人に端を発するので、ドナティスト論争というように言われています。どういう論争なのか。教会が迫害されていた時代のことです。迫害に遭い、迫害に屈して信仰を捨ててしまった聖職者がいる。その聖職者がそんなことになってしまったので、その聖職者が授けた洗礼は無効だ、と主張したのです。

皆さまはどうお考えになるでしょうか。例えば、私が洗礼を授けた方々がこの中にもおられます。仮に私が迫害に屈服してしまった。そうなった時に、私が授けた洗礼は有効でしょうか、無効でしょうか。無効なのではないか、そうだとしたら洗礼をやり直さないといけないのではないか、そういう論争が起こったのです。

洗礼をやり直せという主張に対して、明確に反対意見が述べられました。もし洗礼を授けた聖職者が躓いてしまい、洗礼そのものも無効になるとしたら、洗礼を受けた者は、その聖職者が職務を全うして無事に死ぬまで、安心できないことになります。それはおかしい。洗礼はそもそも人に依らない。誰が洗礼を授けたとか、そういうことが重要ではなく、洗礼という事柄を受けたことが重要なのだ。そういう反対意見が明確に述べられました。

洗礼は、人に依るのではなく、神が確かな救いのしるしを刻んでくださった出来事です。一度、洗礼を受けた者は、生涯その洗礼が有効になる。この論争を経て、洗礼の確かさが、確固たるものになったのです。

洗礼はそれほどまでに確かなものです。人間が取り消すことができない確かさがあります。多くの人たちが、様々な思い悩みの中に置かれた時、自分は洗礼を受けている、確かな恵みが刻まれている、そのことによって立ち直りました。

洗礼を受けている、受けていないのでは、その差が比べられないほど大きいのです。洗礼を受けておられない方は、ぜひこの神が確かな救いのしるしを刻んでくださる恵みの出来事を、よく考えていただきたいと思います。すでに洗礼を受けた方は、何度も繰り返しその恵みに立ち返っていただきたいと思います。

今日の説教の説教題を、「神が保証を与えてくださる」としました。今日の聖書箇所には、神が私たちに様々な保証を与えてくださることが記されています。キリストと固く結び付けてくださったり、油を注いでくださったり、証印を教えてくださったり、聖霊を与えてくださったり、いずれも洗礼とかかわりのあることです。

私たちは洗礼を受け、キリスト者になり、神に保証された者になることができます。世の中は、自分で自分を保証するようにして生きていかなければならない世の中かもしれません。しかし自分で自分を保証することができず、様々な歪みが生じている世の中でもあります。そのような世の中にあって、何が本当の保証となるのか、よく考えていただきたいと思うのです。

この保証の中で、私たちは自分を見つめ直すことができます。自分で自分を好きになれないところがある私たちです。しかし神がこの保証を与えてくださった。私たちはその保証を与えられた者。神がこの保証を与えてくださったほどに私たちを愛してくださったのですから、私たちも自分を愛することができる。そうなれば隣人を愛することができる。そして神を愛することができる。そういう人に生まれ変わることができるのです。