松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年4月16日(日)
説教題「キリストによって否から然りへ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章15~20節

このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

旧約聖書: イザヤ書14:24~27

イースター、おめでとうございます。イエス・キリストが十字架の死から、お甦りになられました。もしも主イエスの復活がなかったとしたら、キリストの教会にとって、大事なすべてのものが失われてしまうことになります。

イエス・キリストの復活がなかったとしたら、まずは伝道そのものがなかったことでしょう。主イエスの十字架の死によって、弟子たちは意気消沈してしまいました。主イエスを殺したユダヤ人たちを恐れて、家の中に閉じこもっていた状況です。しかし復活の主イエスが弟子たちに現れてくださり、弟子たちは力を得て、聖霊に満たされ、使徒として伝道をしていきました。使徒言行録を読みますと、使徒たちは「キリストは甦られた」と言って、伝道をしていきました。主イエスの復活が、伝道の力になったのです。

そして、もしも復活がなかったとしたら、伝道がなかったわけですから、教会もなかったことになります。使徒たちの伝道によって、各地で教会が建てられていったわけですが、教会の人たちは、復活のキリストが今も生きておられ、働いてくださっていることを信じて、歩んできたのです。

さらに、主イエスの復活がなかったとしたら、信仰そのものがなかったことになります。コリントの信徒への手紙一に、こうあります。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Ⅰコリント一五・一二~一四)。

コリント教会の中に、「死者の復活などない」と考えてしまう者がいて、教会の創設者のパウロがコリント教会に宛ててこのように手紙を書いています。「宣教は無駄」「信仰も無駄」となっていますが、「無駄」とは無、ゼロのことです。

キリストの甦りがなければ、伝道もなかったし、教会もなかったし、信仰もなかった。無だった。ゼロだった。パウロがそう言っているように、キリストの復活が、私たちキリスト者の礎になるのです。

今日はイースター。特別な礼拝です。こういう特別な礼拝の場合には、いつも御言葉を聴き続けている箇所から離れて、その日にふさわしい箇所から御言葉を聴く場合も多いのですが、今日もコリントの信徒への手紙二から御言葉を聴きます。キリストの復活のことは、直接は触れられていないかもしれません。しかし今日の聖書箇所に出てくる「然り」「否」という言葉を手掛かりにして、御言葉を聴いてまいりたいと思います。

今日の聖書箇所で、パウロはどのようなことを言っているでしょうか。まずは最初のところ、一五節です。「このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。」(一五節)。

何気なくパウロが書いているようで、私たちも読み飛ばしてしまうかもしれませんが、「もう一度恵みを」と書かれています。案外、重要な言葉だと思います。「もう一度」と言うからには、すでに恵みを受けているということになります。そしてまた受ける必要があるということになります。

教会は、キリストの恵みによって誕生しました。教会設立の時に、一度この恵みを受ければ、後はもう自分たちの力だけでやっていける、一度受ければもう後は必要ない、というわけではありません。受け続ける必要があります。特にこの時、コリント教会にとって、もう一度恵みを受け取り直す必要があると、パウロは感じたのでしょう。

それにしても、恵みとはいったい何でしょうか。聖書の中で、たくさんお目にかかる言葉の一つです。聖書事典が教えてくれますが、新約聖書の中で、全部で一五六回も使われています。四つの福音書では案外少なく、ルカによる福音書で八回、ヨハネによる福音書で四回だけ使われています。これに対し、パウロが書いた手紙などで、実に多く「恵み」という言葉が使われています。

聖書事典によりますと、「互いに自由で強制できない、思いがけず示された誠実さのこと」(『ギリシア語新約聖書釈義事典』)とあります。さらにこんなことも続けて書かれています。「報いとは反対に、無償の性質を持つ」(同)。「報い」というのは、報酬のことですが、何かをしたら、その報い、報酬が返ってくる。しかし「恵み」は「報い」とは違い、「無償の性質を持つ」のです。それゆえに、聖書の中でも、贈り物や賜物と訳すこともできる。一方的に神からいただいたよきもの、ということになります。

恵みという言葉は、コリントの信徒への手紙二の中でもたくさん使われている言葉で、すでにもう使われている言葉でもあります。例えば、第一章一二節にこうあります。「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(Ⅱコリント一・一二)。

今日の聖書箇所は、この一二節からの続きの箇所でもありますが、パウロはここで、自分たちは神から「純真と誠実」をいただいて、その恵みの下で歩んできたことを言っています。コリント教会の人たちにも、パウロが味わっているような神からの恵みを、もう一度味わってほしいと願っているのです。

そこで、パウロは計画を立てました。その具体的な計画が、こう記されています。「そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えたのでした。」(一六節)。

ところが、パウロが立てたこの計画は、残念ながらうまくいきませんでした。第一章二三節にこうあります。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」(一・二三)。パウロは弁明をするようにこう言っていますが、パウロの立てた計画は、この時点ではうまくいっていなかった。いわば失敗に終わってしまったのです。

なぜ失敗してしまったのか。詳しいことはよく分かりませんが、どうもパウロの訪問が歓迎されていないことが分かった、それが原因のようです。たしかにパウロによってコリント教会が設立され、パウロの手ほどきを最初は受けたけれども、もうその必要もないと思われたのかもしれません。

あるいは、コリント教会を経由して、とありますが、コリント教会で献金を募り、それを他教会へ持って行こうとしたことも考えられるかもしれません。コリントは港町として栄えていた町ですので、比較的、裕福な人たちが多かったのかもしれません。パウロは献金目当てなのだ、そういうようにみなされて、誤解を受けてしまった。そのように考える聖書学者もいます。いずれにしても、パウロの計画は挫折してしまったのです。

続く一七節で、挫折してしまった自分の計画を、パウロはこのように評価して言います。「このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。」(一七節)。

ここに、「然り」と「否」という言葉が出てきました。英語で言えば、YesとNoということです。二週間前の説教で触れた「共同訳」聖書で、今日の箇所を見てみますと、「然り」と「否」という言葉は、「はい」と「いいえ」になっています。日本語ではその通りの意味ですが、一七節は「はい、はい」と「いいえ、いいえ」となっています。少し力強さに欠けると考えられたのでしょう。普段はあまり使われていない言葉かもしれませんが、「然り」と「否」という言葉で訳されています。

ここでパウロが言っているように、人間的な考えや計画には、いつも「然り」と「否」が同居しています。私たちの考えや計画はいつもそうで、うまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もある。あるいは、この人にとってはうまくいったけれども、あの人にとってはうまくいかなかった、そういうこともあるでしょう。「然り」と「否」が混在しているのです。

ところが、パウロはここで終わりにしているわけではありません。人間の計画なんて、うまくいく場合もあれば、うまくいかない場合もあるのさ、と開き直っているわけではありません。続けてこう言います。「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。」(一八~一九節)。

パウロは、決して自分の立てた計画が「然り」だ、そう言い張っているのではありません。むしろ、自分の立てた計画は「然り」と「否」が同居しているかもしれないけれども、私たちが語った神の言葉は「然り」である。そしてイエス・キリストは「然り」である。そう続けて言っているわけですが、これが最もパウロの伝えたかったことです。

なぜキリストは然りになるのでしょうか。一九節後半では、「この方においては「然り」だけが実現したのです」と力強くパウロは言っています。なぜそう言えるのでしょうか。

今日はイースターです。キリストはお甦りになられました。キリストは十字架で死なれたわけですが、私たち人間の罪を背負い、十字架にお架かりになってくださいました。それが聖書の伝えている信仰です。

しかしもしも、キリストの復活がなかったとすれば、どうでしょうか。どうなってしまうでしょうか。主イエスが今も死んでいるということになります。今なお墓に閉じ込められているということになります。私たちの罪を背負って死んでくださったことは分かりました。しかし死んだままであれば、本当に死に打ち勝ってくださったのでしょうか。かえって罪に打ち負けてしまったのではないでしょうか。死への勝利もあやふやにしってしまいます。復活されなかったのですから、死に呑み込まれてしまったことになりかねません。

十字架の死は、見方によっては、ある意味の敗北と受けとめられてしまいかねません。信仰を持たない者からすれば、イエスという男の活動が挫折してしまったのだと受け止められる場合もあるでしょう。優れた道徳的な教師だったけれども、政治体制を批判する革命家だったけれども、その活動が十字架で挫折してしまったのではないか。復活がなければ、そう受け止められてしまうかもしれません。

しかしキリストはお甦りになられました。キリストは「否」ではないのです。復活によって「然り」であることがはっきりしたのです。私たちが伝道するための、教会生活をするための、信仰を持つための、すべての土台であり、礎なのです。

このキリストの「然り」が、私たちにも大きな力を及ぼします。「神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」(二〇節)。

神の約束という言葉が出てきます。神の約束とは何でしょうか。パウロはここで具体的なことは言っていません。このことだけに限定された約束という意味ではないからでしょう。あらゆる約束が「然り」になったのです。

考えられる可能性として、旧約聖書に記されている約束がすべてキリストによって「然り」となった。パウロはそう考えているでしょう。そして何よりも私たちの救いの約束、これもキリストによって「然り」となった。パウロはそのようにも考えているでしょう。

そして二〇節の後半で、「アーメン」という言葉を用い、私たちの祈りのことが触れられています。「アーメン」という言葉は、祈りの最後に私たちが口にしている言葉です。主イエスも使っておられた言葉の響きをそのまま、どの言語でも「アーメン」のまま用いられている言葉です。本当に、その通り、まことに、という意味があります。この「アーメン」という言葉は、「然り」と非常に意味が似ている言葉です。似ているどころか、まったく同じであると言ってさえよい。キリストが「然り」となってくださった。私たちが「アーメン」と同じ意味で応えることができるのです。

ある人が、祈りに関してこんなことを言っています。「神は、祈りを聞いてくださるというよりも、祈りに応えてくださる方だ」。私たちが祈るとき、自分たちの願いどおりのことが起こるとは限りません。でも、神は確実に祈りを聞いていてくださる。祈りを叶えてくださるように聞いていてくださるのではなく、私たちの思いを超えて、祈りに応えてくださるのです。その確信が「アーメン」という言葉、「然り」と同じ意味の言葉なのです。

今日、皆様のメールボックスに、教会総会の資料を配布いたしました。教会総会前に、ぜひお読みいただきたいと思います。教会総会の資料には、昨年度の報告と、今年度の計画が記されています。昨年度、いろいろなことがありました。今年度も、いろいろなことがあるでしょう。

特に私たちは、新たな年度の計画を立てます。パウロもそうでした。コリント教会を経由して、送り出してもらうと思った。そういう計画を立てましたが、この計画がうまくいかなかった。私たちの計画は人間の計画です。「然り」と「否」が含まれています。私たちもパウロのように、計画を変更せざるを得ないようなことも生じるかもしれません。

しかし、私たちはどんなときにも、必ず「然り」でいてくださる主イエスが共にいてくださいます。パウロは自分の計画がうまくいかない時にこそ、「然り」であるキリストに立ち返りました。キリストが十字架の死を乗り越えて、復活してくださったのです。私たちの罪を背負い、罪を赦し、罪によって「否」であった私たちを「然り」にしてくださった。キリストにおいて、すべてが「然り」となったのです。