松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2017年4月9日(日)
説教題「キリスト者の誇り」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章12~14節

わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。

旧約聖書: イザヤ書60:14~16

今日の説教の説教題を、「キリスト者の誇り」と付けました。私たちの誇りとは何でしょうか。キリスト者には、キリスト者ならではの誇ることがある、ということになります。それはいったい何か。今日はそのことを考えていきたいと思います。

誇る、誇り、誇ること。そういう言葉が、新約聖書の中に多く使われてきます。全部で六十回、使われています。そしてその中の五四回を、使徒パウロが使っている。聖書事典や聖書学者たちがそのように教えてくれます。

誇るということは、自慢すると訳すこともできます。誇っている時に、それが肯定的な意味で使われているのか。それとも否定的な意味で使われているのか。一般に使われる場合もそうでしょうけれども、聖書の中でもその意味が肯定的なのか、それとも否定的なのか、それは文脈によることになります。

さらに聖書学者が教えてくれることですが、誇りや誇るという言葉が、最も多く使われているのが、コリントの信徒への手紙二です。全部で二九回も出てくる。次に多いのが、コリントの信徒への手紙一です。全部で九回。三番目はローマの信徒への手紙で八回、ガラテヤの信徒への手紙とフィリピの信徒への手紙で三回ずつ。そのように続いていきます。今までに挙げたのはすべてパウロが書いた手紙です。

その中でも、コリント教会に宛てた手紙の中で、パウロは頻繁に誇り、誇るという言葉を使いました。この言葉は、パウロが好んで使った言葉とは言えなさそうです。人間というものは誰でも、自分がよく使う言い方や言葉を持っているものです。パウロも口癖のように誇り、誇るという言葉を使っていたかのように思ってしまうところですが、決してそうではないのです。コリント教会に対して、使わざるを得なかった言葉であったと言った方がよいと思います。

コリント教会は、様々な問題を抱えていました。コリントの信徒への手紙一を読みますと、いろいろな問題が次々と出てきますが、誇りに関する問題がどうもあったようです。コリントの信徒への手紙一の第一章二六~三一節をお読みいたします。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント一・二六~三一)。

この記述やその他の記述から分かってくることは、コリント教会の中に、人間的なことを誇ってしまう問題があったということです。おそらくコリントの信徒への手紙二のこの箇所を書いていた時のパウロの頭の中にも、その問題があったのだと思います。コリント教会の中の人間的な誇りと、パウロが考えている誇りが相入れず、ぶつかってしまったのです。

それでは、パウロが考えている誇りとは何でしょうか。今日の聖書箇所はこのように始まっています。「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(一二節)。

実はこの一二節、元のギリシア語で文頭にある言葉は、「私たちの誇りである」という言葉なのです。「これが私たちの誇りだ」とまず言って、その後に、誇りの内容を説明している文章が続いていきます。つまり、この箇所でパウロは、誇りについての話だけをしているのです。いろいろな事柄に誇りを付け加えているというわけではないのです。

パウロは「人間の知恵によってではなく」とまず言います。そして「神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました」と言います。「純真と誠実」とありますが、「神から受けた」「純真と誠実」ということです。本来は神のものだった「純真と誠実」が、パウロに移されたのです。

この箇所は、他の日本語の翻訳と比べてみても面白いと思います。かつての口語訳聖書では「神聖と真実」となっていました。漢字からして、神の聖さですから、どう考えても神の「純真と誠実」ということになります。新改訳聖書では「聖さと神から来る誠実さ」となっています。聖さは当然、神の聖さですが、「神から来る誠実さ」は神に由来はしますが、パウロの誠実さということになります。

もっと面白い翻訳は、カトリック教会のフランシスコ会訳でして、「単純さと純粋さ」と訳されています。シンプルということです。神からいただくわけですが、あれこれと何も混ぜない、その単純さと純粋さのことが言われています。

このように考えていきますと、パウロは「純真と誠実によって」行動してきたわけですが、パウロ側だけにあるものではなく、神からいただいたものであり、自分はそのまま神の器として、純粋に行動してきた、と言っているのです。

さらにパウロは付け加えて、「良心も証しするところで」と言っています。良心とは何でしょうか。一般の辞書的な意味としては、「道徳的な善悪をわきまえ区別し、正しく行動しようとする心の働き」という意味です。自分の良き心ということでしょう。

この「良心」という言葉は、教会の結婚式の冒頭のところでも、司式者の私から結婚するお二人に申し上げる言葉でもあります。「今、私はお二人に申します。あなたがたは自らを省みて、この結婚がもし道にかなわないことを思い起こすならば、今、直ちに明言してください。神の言葉と良心とに背いて結婚する者は、神の合わせたもうものでないからです」。

結婚式の最初のところで、お二人に問うわけです。二人の結婚の道が、神の言葉に照らし合わせて真実であるか。そしてそれだけでなく、自分たちの「良心」に照らし合わせても間違いがないか。最初のところでそのことを確認し、その上で、讃美歌を歌い、結婚式の礼拝に入っていくことになります。

パウロがここで言おうとしていることもまさにそのことです。私パウロは、神に対しても真心から働いてきたし、自分の良心に対しても、それは確かだ。パウロはここでその二つのことを言っているのです。

パウロがなぜそのように強調したのか。それは、パウロの行動を、コリント教会の人たちに理解して欲しいと思ったからです。理解を得るというのが、パウロの願いでした。「誇り」という言葉と並んで、今日の聖書箇所には、「理解」という言葉が、日本語の翻訳としては三度用いられています。これも大事な言葉です。一三~一四節にこうあります。

「わたしたちは、あなたがたが読み、また理解できること以外何も書いていません。あなたがたは、わたしたちをある程度理解しているのですから、わたしたちの主イエスの来られる日に、わたしたちにとってもあなたがたが誇りであるように、あなたがたにとってもわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい。」(一三~一四節)。

パウロとしては、コリント教会の人たちが理解できること以外を書いていない。そういうつもりです。理解してもらえることに希望を置いているのです。そして、あなたがたはわたしたちを「ある程度」理解していると、続けて言っています。つまり、現時点では、完全な理解に至っているわけではないが、理解し合えるようになることを望んでいるのです。

「わたしたちの主イエスが来られる日」とありますが、これは主イエスが再び来られる再臨の時のことです。その日には、お互いのことを誇り合えるようになる。今はまだ道半ばかもしれないけれども、その日を目ざしている歩みということになります。パウロが理解して欲しいのは、そのことなのです。

先週の金曜日、神学校で授業を担当しました。神学校の授業を行うのは初めての経験でしたので、こちらも緊張しましたし、学生たちも、その三分の二くらいが編入学したばかりの学生たちでした。火曜日に入学式があり、水曜日と木曜日がオリエンテーション、そして金曜日が授業初日でした。こちらも緊張し、向こうも緊張している。そういう中での授業でした。

担当したのは、教会史。教会の歴史です。教会の歴史を講義するわけですが、教えて理解させなければならない。理解することのできる言葉を選びながら、講義をするわけです。しかし単に理解だけすればそれでよいというわけではありません。神学校に入学してきた方たちは、やがて伝道者になるわけです。伝道者になるために、教会の歴史を学んでいく。そのための授業です。普通の授業とは少し意味合いが異なります。

授業の最初のところで、このように申し上げました。教会の歴史は、一方では、人間の罪の歴史を学ぶことになる。しかし他方で、神の力強き導きを学ぶことにもなる。私自身が十年以上前に、学生として教会の授業を受けたわけですが、私のその時の感想でもあります。人間の混乱ぶりがよく分かる、そのような歴史を学んだわけですが、不思議なことに、その混乱の中に、神の導きがあったとしか思えないような出来事が起こる。そのように歴史が動いていく。これは面白いと思い、歴史神学を自分の分野として専攻していくことになりました。

伝道者として教会の歴史を学んでいく。伝道者としてではなかったとしても、キリスト者として教会の歴史に触れる。そうすると、決して自分を誇ることはできなくなります。人間的な誇りをまったく見いだせない歴史なのです。しかし神が歴史を導いてくださった。そのことがよく分かります。そしてそのことを誇りという言葉を使って言うならば、自分を自慢する誇りではなく、神を誇る誇りを覚えることができるのです。

そこで、改めて今日の聖書箇所でパウロが言っている誇りについて、神を誇ることについて考えてみたいと思います。先ほど、説教前に讃美歌一四二番を歌いました。この歌詞の中に、「ほこり」という言葉が出てきます。

この讃美歌の作詞をしたのは、アイザック・ウォッツという人です。イングランドの人です。父は教会の執事として働いていました。ただし、イングランドの国教会の教会だったわけではありません。その時代、国教会以外の教会はたいへん厳しい時代を迎えていました。アイザックが生まれた時、父は国教会とは違う信仰のゆえに、投獄されていたような状況でした。

アイザックは、言葉の豊かな賜物が与えられていました。小さい頃から、外国語や古典語を習得していきます。牧師になりますが、病弱だったため、十二年間しか働くことができませんでした。その後の三六年間は、詩を書く活動していきました。

ある時、教会の礼拝に出席した時のこと。当時の礼拝では、詩編歌というものが歌われていました。しかしアイザックにとって、その詩編歌があまりにも単調で、冗長な言葉遣いで、とても心から神を讃美しているようには思えなかったのです。

少し時代背景をご説明しておきますと、ヨーロッパに教会を改革する運動が起こった後の時代です。それまでは、荘厳なパイプオルガンに聖歌隊がいて、というような状況でしたが、こういうところにも改革のメスが入ることになりました。ある改革者はオルガンまで撤去して、徹底的に簡素な礼拝を目ざした。さすがにそれはやり過ぎたのかもしれませんが、改革派と呼ばれるグループでは、詩編歌の讃美歌を歌うのが主流となりました。詩編の言葉に、単純なメロディーをつけるだけの讃美歌です。アイザックの教会も、そういう流れを汲んでいたのだと思います。

そういう改革の流れ時代は別に悪かったわけではないのでしょうけれども、アイザックにとって、自分たちの教会で歌っている詩編歌は、あまりにも単調だったようです。アイザックは父にそのことを相談します。そうしたら、それではお前が作ってみたらどうだと言われ、讃美歌を作るようになります。まずは詩編歌を次々と改良していきます。イングランドの国教会からは、ある意味では「異端者」のように睨まれることもあったようですが、それでもアイザックの讃美歌は人気があったようです。

詩編歌を改良するだけでなく、今の私たちも歌うような讃美歌も作っていきます。一四二番はその中の代表作です。私たちが今使っている讃美歌集にも、アイザックの讃美歌は、実はたくさんあるのです。

一四二番が最初に作られた時、アイザックは曲のタイトルとして、「キリストの十字架によってこの世に対して磔刑にされている」というタイトルを付けました。ガラテヤの信徒への手紙からの言葉がもとになっています。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ六・一四)。

一四二番の二番の歌詞に「ほこり」という言葉が出てきます。「十字架のほかには、ほこりはあらざれ、この世のものみな、消えなば消えされ」。どこに誇りがあるのか。主イエスの十字架にあると言います。一番の歌詞はこうです。「さかえの主イエスの、十字架をあおげば、世とみほまれは、塵にぞひとしき」。人間的な誇りはすべて十字架の前に消え失せる、その信仰を歌っている讃美歌です。

今週から受難週に入ります。主イエスがこの週の金曜日に十字架にお架かりになりました。私たち罪人を罪から救うための十字架です。教会の歴史の始まりに、この出来事が起こりました。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目にお甦りになられた。人間の罪の歴史の中に、神が起こしてくださった救いの出来事です。

その出来事の大きさが分かるならば、私たちが自分を誇るということも消え去っていきます。主イエスが私たちを救ってくださったのです。私たちは救われた者として、救われたわけですから自分を誇るわけにはいきません。しかし私たちに誇るべき誇りがある。「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント一・三一)とパウロが言いましたが、十字架にお架かりになった主イエスを誇ることができる。それがキリスト者の誇りなのです。