松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2017年3月19日(日)
説教題「聖なる者たちへ」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章1~2節

神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

旧約聖書: 申命記7:6~11

今日のこの礼拝から、コリントの信徒への手紙二より御言葉を聴き始めます。第一章の最初から始めて、第一三章の終わりまで、一年かけて御言葉を聴きます。心を新たにし、大事な御言葉を聴いていきたいと願います。

ヨハネによる福音書が終わり、次はどこを読むのか。示されたのが、コリントの信徒への手紙二です。それにしてもなぜコリントの信徒への手紙なのか。私の説教者としての祈りの中で示された。それが第一の理由で、そう言ってしまえばそれまでですが、この手紙の中で、特に教会が問われています。教会とはどうあるべきなのか。教会のことをよく考えてみたい、それが第二の理由です。

コリントの信徒への手紙二から御言葉を聴くにあたり、私の説教者としてのどうしてもしなければならない準備として、この手紙を書いたパウロとコリント教会がどういう関係だったのか、どういう出来事があったのか、それらのことをまとめることです。本日、皆様のメールボックスに「パウロとコリント教会の出来事」というプリントを入れておきました。私の勉強用に作った資料です。しかし、コリントの信徒への手紙二から御言葉を聴く際にも、役に立つと思いますから、せっかくだから皆さまにもお渡ししたいと思います。

今日のこの説教の中で、このプリントの説明をいちいちしません。興味のある方は、家に帰って、このプリントをご覧になりながら、使徒言行録とか、コリントの信徒への手紙一とか、コリントの信徒への手紙二の該当箇所を開きながら、パウロとコリント教会との間に、こんな出来事があったのか、ということを確認していただきたいと思います。

しかし、今日まずここでお伝えしたいことは、プリントをご覧になればよく分かると思いますが、パウロとコリント教会の間に、一年か二年の短期間の間に、様々な出来事が次々と起こったということです。パウロは一年か二年の間に、少なくとも五回、手紙を書いています。少なくとも三回、訪問しています。良好な関係だったというわけではありません。むしろ逆です。関係が悪化する中で、手紙を書いたり、訪問をしたりしているのです。

このプリントを私が作っての感想ですが、よくパウロはコリント教会を諦めなかった、そのように率直に思いました。関係が悪化する中、コリント教会が混乱し、パウロが公然と非難される中、よくパウロは諦めなかったと思います。手紙など書かず、訪問などせず、放り出したい、逃げ出したい、関係を絶ち切りたい。パウロもいろいろなことを思ったと思います。でも結局はそうならなかった。なぜそうならなかったのか。それは、パウロが教会とは何かということを、よくわきまえていたからです。そのことを、今日の御言葉として聴きたいと思います。

本日、私たちに与えられた聖書箇所は、コリントの信徒への手紙二の書き出しの部分です。コリントの信徒への手紙二から御言葉を語るために、私はここしばらく、コリントの信徒への手紙二に関する注解書や説教集を集めています。注解書は、聖書の解説でありますから、きちんと第一章一節と二節の解説も書いてくれていますが、説教集の中には、第一章一節と二節の説教をしていないものもあるのです。私はそのことについては、とても残念に思います。

今日の聖書箇所の一節と二節は、手紙の挨拶の部分です。確かに、新約聖書の他の手紙にも見られるような、同じような表現が使われています。しかし、この手紙の挨拶の言葉というのは、教会を考える際に、とても大事な表現です。パウロがなぜコリント教会を諦めなかったか、その理由が、今日の短い聖書箇所によく表れているのです。

手紙の書き出しというと、私たちはどのようなことを考えるでしょうか。季節の挨拶を考えるかもしれません。「春の日差しを感じるようになりました。いかがお過ごしでしょうか」、そんな書き出しをするかもしれません。こういう季節の挨拶は、特に手紙の本文と関係がないのが一般的です。

ところが、聖書の書き出しは違います。大事なことが冒頭のあいさつに含まれているのです。単なる季節の挨拶でもなければ、説教で飛ばしてよいようなものでもありません。

例えば、私たちキリスト者が手紙とかメールとかを書いたり受けたりするときに、「主の御名を讃美します」というようなことを書いたり受けたりすることがあります。これも定型句というわけではありません。今、私たちが手紙やメールのやり取りをすることができる。神が私たちを出会わせて、交わりを与えてくださった。そのことを神に感謝する言葉です。

今日の聖書箇所の一節と二節を改めて朗読いたします。「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(一~二節)。アカイア州というのは、コリントの町がある州の名前で、コリントがその中心地です。コリントとその周辺のキリスト者たちに宛てた手紙ということになります。

特に今日、注目したのが、「聖なる者たち」という表現です。この「聖なる」という言葉は、新約聖書の多くの手紙の冒頭のところで、使われている表現でもあります。新約聖書は、最初に四つの福音書があり、使徒言行録が続きます。その後に続いているのが、多くの手紙です。ローマの信徒への手紙から始まり、コリント一と二、ガラテヤ、エフェソ、フィリピ、コロサイ、テサロニケ一と二、ここまでがパウロから教会へ宛てた手紙の形式となっています。それ以降はしばらく、パウロから個人に宛てた形式となっています。

パウロから教会へ宛てて書かれた九つの手紙のうち、六つは「聖なる」という言葉が冒頭のところで使われています。あなたたちは聖なる者たちだ、とパウロは言うのです。他の三つは「聖なる」という言葉はないものの、教会に宛てられているので、教会に集う聖なる者たちという考えを、もちろん含んでいるわけです。

パウロはどの手紙でも、教会の者たちを「聖なる者」と考えているわけです。聖なるとは、どういうことでしょうか。清いことでしょうか。説教の準備のために、コリントの信徒への手紙二を改めてすべて読み返してみました。合わせてコリントの信徒への手紙一も読み返してみました。とてもコリント教会の人たちが清いなどとは言えないことばかりが書かれています。私たち自身のことを考えてみても、とても自分たちのことを清いだなんて、恥ずかしくて言えないものです。

聖なる者というのは、そういう意味ではないのです。この言葉は、もともとはヘブライ語の言葉として出発しました。ヘブライ語で書かれた旧約聖書にも、聖なるという言葉が多く使われています。言葉の元来の意味としては、特別なものとして区別するという意味があります。それも神とのかかわりで、特別なものとして区別されるのです。

例を挙げて考えてみましょう。私たちキリスト者は日曜日のことを、聖日と言うことがあります。一週間が七日ありますが、日曜日を単なる七分の一とは考えないわけです。他の六日の日があるとすれば、日曜日が神を礼拝する日であり、そのような神とのかかわりの日として、特別に区別された聖日とするわけです。

また別の例としては、献金を聖別すると言います。分かりやすく言いますと、百円玉十枚の収入があったとする。十分の一の百円を献金として献げようと志す。十個ある百円玉の一個を特別なものと区別しておく。他の九枚は、生活に必要なものを買ったり、好きなものを買う。神とのかかわりの中で、献金のための百円玉一枚が、特別なものとして区別された、聖別されたものになるわけです。

このように「聖なる」を考える際に、いつも神とのかかわりで考えなければなりません。単なる人間的な清さではないのです。本日、私たちに合わせて与えられた旧約聖書の申命記の箇所が、そのことをよく表しています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(申命記七・六~八)。

いきなり「聖なる民」ということが言われています。なぜ聖なる民なのか。イスラエルの人たちが特に清かったから、というわけではありません。それどころか、むしろ話はまるで逆だったわけです。神がただ選んでくださったから、ただ愛してくださったから、「聖なる」という言葉が使われているのです。「聖なる」という言葉を使う際には、いつでも神の側からの働きかけを考えなければなりません。神に根拠があって初めて使える言葉です。

パウロもそのようにして「聖なる者たち」という言葉を使いました。自分がコリント教会の初代牧師だから、人間的な意味でお世話をしなければならない。そう考えているわけではありません。コリント教会の人たちが立派な信仰生活をしていて清いから、パウロがかかわりを持っているわけではありません。神によって教会に召された者たちだからこそ、パウロは「聖なる者たち」と言っているのです。

今日の聖書箇所の最初の一節に、「神の教会」とあります。聖書の中で使われている言葉の中で、「教会」ほど、日本語として誤解を生む言葉はほかにないかもしれません。教会は、漢字が持っている意味としては、「教える会」ということです。しかし教会は単にキリストの教えを教えているだけではありません。すっかり教会という語が定着してしまいました。そのことを嘆いている牧師もいるくらいです。

私もそのように思うところもありますが、しかし大事なことは、教会とは何かということを、私たちがきちんとわきまえておくことです。「教会」という元の言葉が持っている意味は、「呼び集められた者たちの集い」という意味です。教会よりも「集会」と言った方がよいかもしれません。

しかし集会と言っても、自分たちが自発的に集まっている会ではないのです。神が呼んでくださる、神が集めてくださる。それゆえに、私たちが呼ばれる、私たちが集められる。そういう者たちの集いが、教会なのです。

コリント教会もまたそうでした。どんなに教会が混乱していても、どんなに清くないような教会生活をしていたとしても、教会は「聖なる者」たちの集いである。パウロはこの点を外すことはありませんでした。パウロが書いたすべての手紙で、神の教会であること、聖なる者たちであることを冒頭に書きます。パウロがコリント教会を諦めなかった理由がここに見出すことができます。根拠は神にあるのです。

コリントの信徒への手紙二に先立って、パウロはコリントの信徒への手紙一を書いています。その第一二章のところで、パウロは教会がキリストの体であることを書いていきます。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(Ⅰコリント一二・二七~二八)。

このようにパウロが言ったのは、前の箇所からの続きでそう言いました。一三節のところでは、「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」と言い、洗礼を受けることによって、キリストの体なる教会に加えられると言います。

一四節以下のところでは、体は一つの部分ではなく多くの部分から成り立っていることが言われています。そして二六節、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」と言われています。

コリントの信徒への手紙二では、パウロがコリント教会の人たちと、本当に共に苦しみ、本当に共に喜んでいる。そのような記述ばかりです。コリントの信徒への手紙二を、改めて何度か読み直してみて、すいぶんパウロの感情的なことが表に表れている手紙だと思いました。喜ぶことは少ないかもしれませんが、ある時は大変喜んでいる。しかし多くの時は、苦しんだり、悲しんだり、嘆いたりしています。パウロは決して強いだけの人ではありません。むしろ弱く、感情に左右されやすい人だったように思います。キリストに出会って回心する前は、教会の迫害者でした。そんなことを信じる奴らは赦せないと、非常に感情的にそう思っていたわけです。

コリントの信徒への手紙二では、パウロは自分の痛みとして、コリント教会の人たちを思っています。聖なる者たちだったからです。神がコリント教会の人たちを聖なる者たちとしてくださったからです。パウロが決して諦めなかった理由を、ここに見出すことができます。

本日より、コリントの信徒への手紙二から御言葉を聴き始めました。私たちの教会にとって、大事な一年間になります。この手紙から御言葉を聴く際の秘訣は、パウロと一緒に苦しむことだと思います。そしてパウロと一緒に慰められることだと思います。希望を抱くことです。教会は聖なる者たちです。パウロがしたのと同じように、私たちもまた、教会の大事なことを確認していきたいと願います。

今日の聖書箇所の二節に、「恵みと平和」という言葉があります。新約聖書のたくさんある手紙の冒頭部分に、これもまたたくさん出てくる表現です。「聖なる」という言葉以上に、どの手紙の書き出しにも出てくる言葉です。「恵みと平和があるように」。パウロはいつでもこの言葉と共に、手紙を書きました。

パウロとコリント教会の人たちとの間に、平和がない状況でした。コリント教会の人たち同士の間にも、平和がない状況でした。何よりも、神とコリント教会との間に、平和がない状況でした。しかしパウロは諦めません。私たちも諦める必要はありません。神が教会の人たちを聖なる者として召してくださったように、恵みと平和を与えられます。私たちも神の教会に属する者として、恵みと平和を求めることができるのです。