松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2013年9月22日(日) 逝去者記念礼拝
説教題「死の向こう側まで責任を持ってくださる神」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: テサロニケの信徒への手紙一 第5章1〜11節

 兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

旧約聖書: 詩編 第139編1〜6節

本日は、逝去者記念礼拝という特別な礼拝を行っています。いつもですと、使徒言行録から連続して御言葉を聴いていますが、本日は特別な礼拝ですので、いつもと違う聖書箇所から御言葉を聴くことにしました。新約聖書のテサロニケの信徒への手紙一の第五章の聖書箇所が本日、与えられています。

先週、与えられた使徒言行録の箇所には、使徒パウロが出てきました。パウロは最初、教会の迫害者でしたが、主イエス・キリストに出会い、その後は教会の伝道者になりました。文字通り、一八〇度、方向転換した人です。パウロの回心と言われている話です。

パウロはその後、伝道者として、伝道をしたわけですが、パウロはどのように伝道をしていったのでしょうか。パウロの伝道の基本は、旅行でした。各地で御言葉を宣べ伝えながら旅をする。旅先で教会を建てていく。一つのところに長い間、滞在し続けたわけではありません。旅をしながら伝道をする。これが基本的な伝道のスタイルでした。

しかしもう一つ、伝道の方法を付け加えることができます。パウロは実に多くの手紙を書きました。私たち手にしている新約聖書にたくさんの手紙が収められていますが、多くの手紙はパウロによって書かれた手紙です。パウロは旅をしています。簡単に自分が建ててきた教会を訪問するわけにはいきません。そこでどうしたのか。パウロは手紙を書いたのです。伝道をするために、教会内で起こっている問題に対処するために、教会員たちを励ますために、パウロは手紙を書いたのです。

その手紙の中の一つが、本日、私たちに与えられたテサロニケの信徒への手紙一です。この手紙もパウロによって書かれました。そしておそらく、新約聖書に収められている手紙の中で、この手紙がパウロの書いた最も古い手紙であると言われています。新約聖書の冒頭には四つの福音書がありますが、これらの福音書はこのテサロニケの信徒への手紙一よりも後に書かれたものです。つまり、新約聖書の中で、このテサロニケの信徒への手紙一が最も古いものであると言われているのです。

パウロはこの手紙を一体何のために書いたのでしょうか。その目的はいろいろあるかもしれませんが、一つはっきりしているのは、テサロニケ教会の人たちを励ます目的がありました。何のことで励ますのか。一つの大きな問題は、死に関する問題でした。この手紙の中で、死について書かれている箇所があります。それが、第四章の一三節から第五章の一一節までになります。第四章一三節にこうあります。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」(四・一三)。

「既に眠りについた人たち」というのは、死んだ人たちのことです。希望を持つために、ぜひ次のことを知ってほしいとパウロは言います。そして、「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」(四・一八)、「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(五・一一)と言って、励まし合いながら生きなさいと勧めています。本日、私たちに与えられた聖書の箇所には、死を見据えてどのように生きるべきなのかということが書かれているのです。

この問題を考えるために、本日の聖書箇所でまず踏まえておかなければならないことがあります。それは「主の日」に関することです。第五章の二節と四節に出てきます。「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」(二節)。「ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」(四節)。主の日が突然やってくる、盗人のように突然やってくるということが言われています。

この「主の日」とは一体どんな日でしょうか。第五章に書かれていることは、第四章のことを前提にして書かれています。第四章一五節にこうあります。「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」(四・一五)。主の日とは、ここにありますように、主イエスが再び来られる日です。

主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に復活されて、その後、天にお戻りになられました。そして天から再び主イエスが来てくださる。そのことを再臨とか、来臨と言いますが、その日が「主の日」になります。この日は世界の終わりの日でもあり、完成する日でもあり、裁きの日でもあります。世界が神によって創造されたからには、世界には終わりもある。どのように終わるのかというと、この「主の日」がやってくることによって終わる。聖書はそのように私たちに告げます。

このテサロニケの信徒への手紙一は、パウロの最初期の手紙であると先ほど申し上げました。パウロをはじめ、教会の最初期の人たちは「主の日」がいつやって来ると考えていたのか。今の私たちとはだいぶ考え方が違いました。パウロたちは、自分の人生が終わる死の日よりも、「主の日」が先にやって来ると信じていたのです。

ところが、パウロたちの時代から少し時が流れて行きました。主の日がなかなかやって来ない。パウロたちも死んでしまった。そこで、主の日がいつやって来るのか、考え直さないといけなくなってしまったのです。パウロたちは、自分たちの死よりも主の日が先だと思っていた。その後の人たちは、主の日よりも自分たちの死が先だと考えるようになりました。二千年経った今の私たちも、主の日よりも自分たちの死の日が先だと思う人がほとんどでしょう。

しかしどちらが先なのか、そのことにあまりこだわりすぎる必要はないと思います。主の日が先なのか、自分の死が先なのか。どちらが先になるのかは神のみぞ知ることで、分からないわけですが、いずれにしても、キリスト者としての備え方は同じです。自分の死に備えようが、主の日に備えようが、その備え方は一緒です。私たちはどのように備えればよいでしょうか。

主の日は突然やって来るということが強調されています。死もやはり突然やって来ることがあります。盗人のように、と記されていますが、盗人がやって来ることが分かっていたならば、誰もが万全の対策を取っておくでしょう。しかし油断があったり、備えをしていなかったとすると、それは突然の出来事になってしまいます。三節のところに「人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。」(三節)と記されているように、備えがないとするならば、不意打ちを食らうことになります。

どのように死に備えるか。最近の日本では、高齢社会になったということもあり、死に備えることが話題になるようになりました。法的な遺言を書くというのもその一つでしょう。しかしもっと手軽なものもあります。エンディングノートと呼ばれるものを、皆さまもお聞きになられたことがあるかもしれません。あるいは、終わりの活動と書いて、終活という言葉も聞かれるようになりました。

エンディングノートには、一体どのようなことを書くのか。例えば、自分が病気になったときに、延命措置を望むのか望まないのか、というようなことを書いておきます。あるいは、自分が意志疎通がそれほどできなくなり、介護が必要になったときにどうしてほしいのかということも書けます。その他にも、葬儀に対する希望とか、自分のプロフィールや自分史を書く人もいるようです。

このようなエンディングノートは、自分が死ぬのだということを見据えて備えをする点においては評価することができると思います。私たちも、もしかしたらこのような備えが必要であるかもしれません。まったく死を考えないでいるよりは、死を見据えて生きる生き方は立派だと思います。

しかしエンディングノートでは、絶対に不足するところがあります。エンディングノートや終活で何をしているのかというと、自分が生きている間にどうして欲しいのか、あるいは自分が死んだ後に、地上に残された家族にどうして欲しいのかということを書いているにすぎません。備えができるのは、あくまでも地上に限ったことです。自分が死んだ後にどうなるのか、その先の保証は何一つないのです。私たち人間ができるエンディングノート、終活はそこまでです。自分が死んだ後のことは、神にお任せする以外にはないのです。

神にお任せをするというところで、私たちの信仰が問われることになります。神に信頼してお任せできるかどうか。皆さまはお任せすることができるでしょうか。お任せをするということが、神を信頼する信仰なのです。

先週の金曜日、教会員のお宅で家庭集会を行いました。何人かの教会員の方や求道者の方々が集まった。一冊の本を読み進めています。なかなか優れた本であると私も思います。信仰を持つとはどういうことかということに始まり、神が世界と人間を造られたこと、けれどもその人間が罪を犯してしまうこと、罪を犯した人間がイエス・キリストによって救われること。聖書のそのような道筋にしたがって、その本は書かれています。

先週、読んだ箇所の次のところに、理性と信仰に関することが書かれてあり、理性と信仰のことが少し話題になりました。理性というのは、私たちが頭でいろいろと考えることです。私たちには理性が与えられています。理性を用いて、いろいろなことを考えます。信仰のことも理性で考えることがあります。

ところがある出席者は、聖書の様々なことをなかなか信じることができず、いろいろなことを疑問に思っていたところ、信仰の先輩から「あれこれ思わず、ただ信じればいいのよ」と言われてしまったということをお話ししてくださいました。確かにそういう面があるかもしれません。いくら理性で考えていたとしても、頭だけで神が分かるというわけではありません。最後には、やはり信仰によって信じるという一線を越えなければなりません。

しかし私たちは盲目的に何でも信じればよいというわけではありません。とにかく信じればよいということも大事かもしれませんが、やはりじっくり理性的に考えるということも大事です。なぜなら、神は私たちに信じることができるように、必要なことを教えてくださっているからです。もちろん、神がすべてを私たちに教えてくださっているわけではありません。例えば、私たちは死後の世界がどういう世界なのか、何も知りません。聖書が何も私たちに教えてくれないからです。

このようにすべてを教えてくださっているわけではありませんが、私たちが信じるために必要なことは教えてくださっている。死の後も本当に神にお任せしてよいのかどうか、神を信頼してよいのかどうか。神は信頼に足るお方である、神を信じることができる、その根拠を私たちに与えてくださっています。

そのことを踏まえて、本日の聖書箇所であります、九節から一〇節を改めてお読みしたいと思います。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(九~一〇節)。

主の日というのは裁きの日であると先ほど申し上げました。私たちは神の御前に出て、その裁きに耐えられるでしょうか。しかしこの聖書の言葉は私たちに告げるのです。神は私たちを怒りに定められたのではない。裁きの結果、怒られるのではない。そうではなく、神は私たちを救いに定めてくださった。どのようにしてか。主イエス・キリストが私たちのために死なれた。十字架にお架かりになってくださり、私たちの罪を代わりに負ってくださった。それが私たちの救いになるのです。だから私たちは裁かれても大丈夫だと言える。主の日は怒りに定められる日ではなく、救いに定められる日になるのです。

私たちの神はこのようにしてくださるお方です。だから、神は信頼に足るお方なのです。根拠もなく、盲目的に、ただ神を信じるのではない。理性的に神を信じることができる。神がこのようにしてくださった。神が私たちにしてくださったことがある。だから神を信頼し、信仰を持って歩むことができるのです。

この信仰を持っている者たちが集っているところが教会です。パウロもテサロニケ教会の人たちを、そのようにして励ましています。一一節にこうあります。「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(一一節)。励ますという言葉は、慰めるとも訳せる言葉です。向上というのは造り上げるという言葉です。神が与えてくださるこの信仰によって、お互いに励まし合い、慰め合い、相手を造り上げていく言葉を語っていのです。

今日は逝去者記念礼拝です。神がかつて私たちに与えてくださった逝去者の方々を覚えると共に、自分も、自分の愛する者たちも、やがて死ぬということをはっきり覚えたいと思います。しかし自分がただ死ぬということを覚えるだけでなく、本当のエンディングノートを書くことができる、本当の終活をすることができる。そのことを何にも増して覚えたいと思います。主イエス・キリストを信じる信仰によって、死を乗り越えることができる。神が私たちの生きている間も、死んだ後も、責任を持ってくださる。そのことを覚えて、お互いに励まし合いながら、主の日、死の日を備えながら歩むことができるのです。