松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年5月20日(日)
説教題「御子の内にとどまりなさい」

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙一 第2章28~第33

さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。

旧約聖書: 箴言 第42027

この5月は、なかなか天候の安定しない日々が続いておりますが、昨日も、気温が随分と下がり、また風も強く吹く一日となりました。ところで風というものは、私たちは通常、それを実際に見ることはできません。しかしその存在については誰もが認め、疑うことはないでありましょう。目には見えないけれども、風は確かに吹いている。私たちはこの事実を、例えば風の音を聞いて確かめたり、直接肌に触れて感じ取ったり、あるいは、匂いや香りを鼻で嗅ぎ取ったりすることを通して、風というものをごく自然に経験します。

聖書が伝える聖霊も、これとよく似たところがあります。聖霊は目には見えません。けれども、見えないからといって、それが実際に存在しないということではありません。見えない仕方で存在している。私たちの目に留まらないところで働いている。そしてそれは神の霊として、神の御元から出でて、私たちの元へと、風のように吹き込んできます。新しいものを運び、新しいことを起こすためです。

今日は聖霊降臨日、ペンテコステを覚えて共に礼拝を捧げております。ペンテコステとは、元々は数字の50番目という意味を表わすギリシア語の言葉に由来しています。それは主イエスが復活されたイースターの日から50日目に、弟子たちの上に聖霊が天から下ったことを記念する日です。松本東教会の新しい歩みも、ちょうど4月1日のイースターから始まり、今日でちょうど50日目を迎えたことになります。

使徒言行録の2章によりますと、聖霊は「突然、激しい風が吹いて来るような音」を立てながら家中に響き、そしてまた、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。この突然に訪れた出来事によって、たくさんの国々の言葉で福音を宣べ伝えようとする教会の歩みが始まりました。これが、私たちの教会、キリストの体なる教会が誕生した最初の姿です。ペンテコステは、いわば教会の誕生日にあたる日ということになります。本日私たちは、この教会の始まりを覚えてお祝いし、また今もなお、この共同体の群れに連ならせて頂ける恵みに感謝して、共に礼拝を捧げるのです。

聖霊の力強い働きによって教会が誕生した。それは別の言い方で理解すれば、復活の主イエス・キリストの御体に結ばれた、神の民の共同体が新たに誕生した、ということです。神の民として、各々異なる私たちは、キリストの福音の故に、その元に一つとされます。そしてまたその福音を広く宣べ伝えるために、神の民としての私たちは、様々な場所へと散らされ、遣わされてゆきます。

この、神の民という共同体意識。では、この意識を支える私たちの信仰とは、一体どのような信仰ということになるでしょうか。

それは、私たちが「神の子」であるという信仰です。ここではもう少し噛み砕いて、それを「神の子としてのアイデンティティ」というように言い換えてもよいかもしれません。いずれしても、私たちが「神の子」であるということ。否、「神の子」とされているということ。実は、これを何度も強調していたのが、今日お読みしたヨハネの手紙の箇所の中心メッセージでありました。もう一度3:1をお読みします。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。続けて3:2にも「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが」と記されています。

私たちが御父なる神から「神の子」と呼ばれていること。そしてその通り、既に神の子とされている事実。その根拠はどこに見出せるのでしょうか。それは例えば創世記に、つまり人間が神様の創造の御手によって造られた最初の時にまで遡ることができるかもしれません。しかし、はっきりとそうだとは書かれていません。創世記に書かれていますのは、人は神の姿に象られて造られた、神のかたちに似せて造られた、ということです。そして「神の子」というのは、そもそも究極的には、イエス様ただお一人を指し示す称号であります。

にもかかわらず、私たちが神の子であるとはっきり認められた所があります。それはまさに主イエスによって、そうなりました。主の祈りです。主ご自身が、神に向かって「父よ」と呼びかけて祈られるその主の祈りを、私たちも一緒に祈ってよい。御子イエスと同じように、私たちも神の子として、「父よ」と呼ぶことが許されている。私たちはこのことを、「主イエス・キリストの名によって」祈るときにこそ、より近く、造り主なる神が父であり、その御手から造られた私たちが子であることを、自覚することでありましょう。

私たちは、自分自身のことを一体どのように自覚し、また名乗るでしょうか。あるいは、どんなアイデンティティを抱いて生きているでしょうか。命を授かって天に召されるまでの間、私たちはこの地上の歩みにおいて、一方では様々な役割や肩書を持ちながら生きています。生徒や学生として学校に通い、社会組織の一員や事業家として仕事に励み、様々なボランティア活動にも携わり、あるいはまた、最近ではニートやフリーターという名前も、一定の市民権を得る程に、社会の中で一つの場所が与えられています。それは社会において認められて暮らしてゆくには、必要な肩書や所属であります。

けれども、私たちはそのような社会的必要に縛られて、かえって生きにくさを感じることがあります。あるいは、肩書や所属を持ちたくても持てない人々、あるいは、かつては手にしていたけれども今は失った、という人々もいます。否、そもそも人間は誰しもが、この世で汗水を流して蓄え、一所懸命に身に着けた肩書や名声というものを、死に逝くときに一緒に天に持っていくことはできません。これは例外のない真実です。

では、世のしがらみに惑わされない確かなもの、死んでも続くもの、死の闇を貫くものとは何でしょうか。それは死を超える「永遠の命」に外なりません。この永遠性は、漠然とした遠い未来のことではなく、今ここで、既に神の子として生かされている信仰によって支えられるものです。

人生における一切の鍵は、私たちが、神の愛がどれだけのものであるかを発見し、思い起こし、噛みしめて味わうことにあります。そしてその愛によって、私たちが永遠の命に招かれ、神の子と呼ばれていることを深く感謝して、確信することです。しかもそれを、父なる神を知らぬこの世において、するのです。それは、自分もまた、この世に生きる者として、この世の思いと闘いながら、しなければならないことなのです。神など存在しないのだという否定や諦め、神よりも確かなものが自分を守り、幸せをもたらしてくれるのだという期待、ましてや神が私の父であって、私がその子であるとは到底信じ難い、等という思いは、この世の多くが抱く思いです。私たちもかつて、そのような思いを抱いたことがあるかもしれませんし、今もどこかで、続いているかもしれません。

しかし、神との親子関係を知らないということは、結局のところ、神の愛を知らないということになります。ヨハネの手紙が闘いの手紙であるのは、ここに秘められた確信からも知ることができるでしょう。

私たちのこの闘いは、けれども自らの手で勝利に導くことはできません。神の子として、父なる神の愛をたっぷり受けて、永遠の命に生かされる、という希望は、ただ恵みによって与えられるものです。「私は神の子である」という信仰も、ただ恵みによって口をついて出てくる、応答としての告白に外ならないのです。

ここで再び、3:1の言葉に注目してみます。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」。はたして私たちは、よく考えて熟慮を重ねたならば、神の愛をよりよく知り、神の子である信仰を告白できるようになるのでしょうか。実は、今この新共同訳で「考えなさい」と訳されている言葉の、元のギリシア語の言葉を辿りますと、「見なさい」と直訳できるものです。英語で言えば、”see”に当たり、実際そのように原文に忠実に訳している翻訳は多くあります。もちろん意味を広げれば、「考えなさい」という訳も決して間違いではありませんが、しかしここでは「見なさい」という本来の響きを大切に受けとめる方が良さそうです。

なぜならば、神の愛は、考えることではなく、見るべきものだからです。そして実際に、見るように示されているからです。では、私たちは、何をどのように見るのでしょうか。先ほど、途中まで触れました3:2「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが」の続きはこうであります。

「自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」。

私たちが神の子であるという信仰について、手紙の著者自身も、それが実際どんな姿・形になるかは示されていない、と言っています。けれども、それはじっと考えて与えられたり示されたりするものではなく、御子キリストが再びこの世に姿をお現しになるとき、私たちはそのキリストの御姿に似た者になる、しかもそれをありのままに「見る」ようになる、と確信します。

「御子キリストに似た者となる」ということ。
私たちはこの世の闘いに惑わされ、疲れ、敗れやすい存在であります。また、この世の闘いに打ち勝っては、自らを過信し、他者を見下してしまうような、大変に歪んだ、傲り深い者であります。それはどちらにしても、神との正しい関係、そして神の愛に生きられぬ苦しい現実を示していると言えるでしょう。

けれども主イエスは、この私たちと神様との破れた関係を正しく取り戻され、再び、神の子として生きられるように、私たちを導いてくださいました。そのイエス様に、私たちが似る者となるということ。それは、私たちがイエス様の姿を模範として、その姿に近づくように懸命に努力することではありません。なぜならば、既に主イエスご自身が、真の神の子であられながら、真の人の子として、私たちに似る姿となってくださったからです。否、似るどころか、ご自分を無にして、私たちと等しくなられたからです。否、それだけではなく、より謙遜に、より貧しくなってくださったからです。それも、「十字架の死に至るまで従順」(エフェソ2:8)であられました。

「御子キリストに似た者となる」ということ。それは、私たちの足元にまで訪れて、その汚れた足を洗ってくださる主イエスの遜りに、まるごと包まれて身を委ねるということです。それはまた、今日お読みした最初の箇所では、別の表現で、「御子の内にとどまりなさい」と言われていたこととも相通じます。しかもこの言葉は、前の27節でも既に登場し、繰り返し呼びかけられている言葉であることが分かります。

「御子の内にとどまる」。私たちがどんなに道から逸れても、諦めずに私たちの足元に留まってくださる、その御子主イエスの内に留まるということです。それは私たちが、神の愛の内に留まることでもあります。なぜなら、主イエスご自身も父なる神の愛の内にいらっしゃるお方だからです。

今日はペンテコステを覚えての礼拝を捧げております。聖霊は、目には見えません。そして今日お読みしたヨハネの手紙の箇所にも、出てきておりません。しかし、父なる神と、子なるイエス・キリストと共に、共に働いて私たちを助けてくれる力、それが聖霊です。教会を生み出し、共に神の子、神の民として歩ませてくれる力、それが聖なる神の霊の働きです。この見えない聖霊の力が、私たちに向かって「見よ」と声を響かせ、見るべきものに目を向けさせてくれます。今日お読みした箴言でも、私たちは神の言葉を聴くと共に、それをまっすぐに見る者とされる喜びが語られています。この聖なる霊と共に、御子の眼差しに捉えられ、神の子として新たに歩みだす私たちでありますように。