松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年4月22日(日)
説教題「神を知っている、と言いながら」

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙一 第2章1~6節

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

旧約聖書: 創世記 第3章1~9節

イースターの礼拝から、私たちは共に、ヨハネの手紙を読み続けています。信仰を惑わす悪しきものとの闘いの中で、必死の思いで書かれた手紙であります。約二千年前に書かれたこの手紙は、今もその輝きを失うことなく、今日ここに生きる私たちのために届けられています。それは、神の愛の確かさを伝えるためであり、また私たちがその神の愛の中で「キリストのものとされる」ためであります。

本日お読みした聖書箇所の最初には、この手紙の書かれた目的が記されていました。2:1「わたしたちの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」。これを聞いてどんな印象を持たれるでしょうか。「あなたがたが罪を犯さないようになるため」。少し消極的な、暗いイメージかもしれません。確かに同じ罪の事柄でも、例えばこんな風に書かれていたらどうでしょう。「私たちの子よ、これらのことを書くのは、あなた方が罪赦され、罪の縄目から解き放たれ、良き行いをするようになるため」。この方がより積極的で、明るい感じがするかもしれません。実際、そもそもこの手紙が書かれた目的は、既に一章で次のように示されていました。3節「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。また続く4節では、「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」とあります。「御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つようになるため」、また「喜びが満ち溢れるようになるため」にこの手紙が書かれた。とても明るくて、希望豊かな印象を抱かせます。

では、今日の第三の目的とも言える、「あなたがたが罪を犯さないようになるため」というのは、それまでの二つの目的と比べて、少しトーンダウンしたのでしょうか。書き手の熱意や闘いの志が、ここに来て、弱まってしまったのでしょうか。あるいは、前の二つの目的とは関係ない、全く別の事をこれから言おうとしているのでしょうか。

ここであらためて、2:1の表現に注目してみます。「罪を犯さないようになるため」。罪を犯さないように「する」ため、ではありません。この「なる」と「する」の違いは何でありましょうか。それは、「罪を犯さないようにする」という人間の意志や努力がここで強調されているのではなく、私たちが「罪を犯さないようになる」、「そのような者とされる」という意味合いがここには込められています。つまり罪を犯さないという現実は、人間の功績ではなく、神の恵みによるということが、ここで語られているのです。

さて、「罪を犯さないようになる」という表現で触れられている、この罪の問題でありますけれども、これは特に、その直前の1:8—10の所で集中して述べられていました。8節「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」。9節「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。10節「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」。

この三つの節が共通して主張していることを突き詰めると、どうなるでしょうか。それは「自分の罪を自覚して、告白しなさい」ということになります。それができるならば、神は私たちを赦し、あらゆる不義から清めてくださる。しかしそれができないのなら、私たちは自らを欺いているのであり、自分の内側に真理と神の言葉を持たないばかりか、神を偽り者としているのである、と厳しく結論付けられています。

けれども本当に自分の罪を告白し、告白する人は…という、手紙の筆遣いの流れの中で今日の所をあらためて読み始めますと、前後の繋がりが見えやすくなるでしょう。すなわち、私たちが真に自らの罪を認め、それを公に(神と人々の前で)言い表すならば、私たちは罪を犯さないようになる、というわけです。

これは、例えばこんなふうに考えれば分かりやすいでしょう。自分に短所や欠点があったとします。おっちょこちょいであるとか、口が軽いであるとか、忘れん坊であることなど。しかしこれらの欠点をすぐには直せなくても、否、一生このままであるとしても、自分の欠点を自覚し、それを正直に周囲に公言することができるならば、自ら制御したり、人の視線や助けを受けながら、欠点は未然に防げることでしょう。

そのように私たちが「罪を自覚し、公言することで罪を犯さないようになる」こと。けれどもこれでは結局、依然として自らの力で罪をコントロールするという、人間の独り相撲や道徳話のように聞こえてしまいます。先ほど申した、罪を犯さないように「する」という、あの次元に戻るかのようです。神の恵みはどこにあるのでしょうか。

そもそも、聖書が言う罪というのは、人間の欠点などと並べてコントロールしたり、人の道徳心や社会常識の観点から把握できたりするような、いわゆる“悪い事”とは異なります。反道徳的で反社会的な心、またその結果としての事柄が、そのまま“罪”なのでもありません。むしろそのような悪を引き起こしてしまう、もっと根深い次元にある問題を指します。罪とは、私たちの心が悪にまみれたり、荒んだりするような、そうした状態の悪さを意味するのではなく、私たちの存在自体の歪み、あるいは関係の歪みを意味します。

ではいったい、どんな関係の歪みなのでしょうか。それは私たちと神様との関係の歪みです。私たちが命の創り主である神様と正しく結ばれているとき、そこには罪ではなく、祝福があります。たとえ心の状態が汚れ、言いようもないような苦しさや虚しさに襲われたとしても、またその結果、足を踏み外すような行いをしたとしても、私たちは神の命に生かされることで、神の深い御腕に抱き寄せられます。そしてその豊かな慰めに包まれる中で、私たちは真に遅まきながら、そこでようやく、自らの罪の根深さ、自らの存在のいびつさに気づかされてゆきます。

この罪は、神の光が当てられなければ、決して自分一人では見ることのできなかった罪です。知らず知らずの内に真の神に背を向け、世に価値あるものとされるものになびいてそれらを神と拝み、ひいては自分自身をあたかも神のように過信し、自己中心的な生き方をなしてきた、自らの愚かさであります。

しかし今や、この暗闇が神の光の中で、神の愛の中で、明るみに出されてゆきます。それはちょうど、本日お読みした創世記のアダムとイヴの原罪物語と重なり合います。神から食べてはならぬと言われた園の中央の木の果実。これを、蛇という私たちの内に潜む悪の声にそそのかされて、二人は食べてしまいます。しかし食べた瞬間、彼らは目が開け、自分たちが裸であることを知って恥じることになります。目が開くとは、光が差し込んでくるということ。裸であることを恥じるとは、自由気ままに振舞った自らの負い目を恥じるということです。そして互いに身を隠し合ったこの二人が立つ舞台の天上から、主なる神の声が鳴り響いてきます。「どこにいるのか」。

私たちは今、神のこの呼びかけに対して、どこに立っているでしょうか。アダムとイヴのように逃げ回り、神に捕えられてもなお言い訳や責任転嫁を続けるでしょうか。それとも神の光に目を向け、その御声に応答しようとするでしょうか。

さて、私たちの罪の問題は、こうして神との関係の中で初めて露にされるものです。そして「罪を犯さないようになる」ということも、すべては主なる神との正しい関係、その恵みの中でこそ可能となる出来事なのです。この「罪を犯さないようになる」という関係の出来事は、今日の聖書にはまた別の仕方でも表現されていました。それは3「神の掟を守る」、5「神の言葉を守る」といった具合です。神が私たちにこうあってほしいと願われ、教えてくださる掟や言葉。それは具体的に十戒や律法のことを指しますけれども、これらを守ること、また実践すること。それが「罪を犯さないようになる」こととして示されています。そしてもし私たちがこの「神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」。またもし「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」、と続きます。

ここで見落としてならないのは、順序の問題です。つまり、神の掟や言葉を守ったことの見返りとして、その先に神を知ったり、神の愛が実現したりするのではない、ということです。そうではなく、もし私たちが神の掟や言葉を守り、そこに示される愛の実践に励むことができたならば、それは真に私たちが神を知り、神の愛が私たちの内に実現していたことの果実として、可能となった出来事なのだ、ということです。

この因果関係の順序を、ヨハネの手紙は特に重んじています。そしてこの順序を乱すような存在、あるいは見せかけの順序で満足してしまっている存在に対して、その矛盾を刺のように指摘します。これは、この手紙の中で何度も繰り返される特徴的な表現ですけれども、4節でこう言われます。「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」。つまり、平たく言い直すと、「神を知っている、と言いながら神の掟を守らないならば、それは本当に神を知っていることにはならない」ということでありましょう。

ここで大切なのは、「神を知っている」というときの、その知り方です。私たちは、いったいどのようにして、神を知ることができるのでしょうか。

その手がかりを、私は先日参りました本城仰太先生の神学博士学位授与式において、あらためて与えられたような気がいたします。それは式が終わった後のお祝いの茶話会で、本城先生がスピーチをされた時のことです。研究に関する専門的な内容については、私もよく理解できない所が多いのですが、ご自分の研究に際する思いに触れて、こんな印象的なお話をされました。「自分は礼拝で皆が告白している使徒信条について研究をした。その成り立ちや言葉の意味、これを作った古代教父と言われる人たちの生きた時代や影響関係などを歴史神学的に探求した。そうしている内に、この使徒信条の言葉が、現代においてとても大切な響きを持つ言葉として受けとめられるようになった」というのです。

研究対象は、歴史という過去です。そして研究というからには、そこには緻密な知的営みが伴います。したがって研究主体である自分がまずいて、歴史の中で作られた使徒信条というのは、その知的作業の網にかけられて研究の対象とされてゆきます。しかし主体と客体の関係が、厳しい困難や格闘を経ながらも親しく交わるようになり、やがて愛を育んでゆくようになった。そしてついには、その関係は逆転し、使徒信条の中に詰まった恵みが、先生を包み込んで圧倒するようになった。

そのように私の耳には聞こえてきました。そして神学も同じだと思いました。「神の学」と書く神学。これは神についての学・知識であります。したがって神学も学問である以上、神を研究対象に置き、人間の理性の網に収めて、神について知ろうとします。しかしそこで知り得た神についての理解をもって、私たちは神を知ったことになるのでしょうか。それは神を知る助けにはなっても、神のすべてを知ることにはなりません。では理性の光をなお引き延ばし続ければ、いずれ神の領域をすべて明るく照らすことができるでしょうか。それもできません。なぜなら、神は人間の存在より小さいはずはなく、この私たちをお創りになったお方だからです。そして神は私たちと交わり、出会い、新しく創り変えてくださる、生きたお方だからです。この神様に私たちが出会って頂くとき、私たちと神との関係は逆転します。神を知ろうとしていたはずの自分が、神に既に知られていたことを知るようなります。この神との驚くべき出会いの中で、私たちは自らの存在の小ささと、それをすべて知って包み込んでくださる神の偉大さとを知り、その交わりに生かされる命に、畏れをもって喜ぶのです。

この神の偉大さは、けれども真に逆説ながら、今や神が偉大なお姿のままで私たちに示されているのではありません。神の偉大なる光は、この世界の限られた時間と空間の中に差し込まれて来ました。御子イエス・キリストを通してであります。それは本当に小さく、貧しく、しかし謙遜で柔和なお姿でありました。

このキリストは、弁護者として今も神と共に、また私たちと共にいてくださいます。一節後半にこう記されています。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。私たちは神を知るようなってからも、いつの間にか再び神に背を向け、罪を犯してしまう者であります。しかし神はその弱さも御存じで、御子イエスと共に見つめてくださっています。ここに「弁護者」として示されています主イエスは、「弁護士」とは違います。どちらも、罪を犯した弱者を助け、守ってくれる存在ですが、弁護士はその弱き者の身代わりとなって、自らが罰や法的処分を引き受けることはありません。けれども主イエスは受けなくてもよいはずの罪を背負われました。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」。

世界に下り、私の内にまで示してくださった神の愛を、私たちはキリストの愛の中で知らされ、神の愛の掟をも喜んで守る者とされたいと切に願います。