松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年4月15日(日)
説教題「既に聞いているもの」

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙一 第1章5~10節

わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

旧約聖書: 申命記 第6章1~9節

キリストの御体なる教会に連なる私たちが、共に等しく頂くことが許されている恵みとは、何でありましょうか。それは私たち自身が「キリストのものとされる」恵みです。既に洗礼を受け、また自らの信仰を神と公の前で告白した方々は、自分の存在すべてが、その体も、心も、魂も、すべてが命まるごとキリストのものとされている幸いを新しく受けとめ直すのです。そしてまだ洗礼の決断には至っていない方、けれども確かな真理の道を求め、あるいは確かな道を歩むことを周りに願われてここに集っている方たちにとっても、この「キリストのものとされる」喜びは、いつも開かれ、すべての人がその喜びの内に招かれています。

先々週のイースターから、また今年度から、「ヨハネの手紙」を読み始めて、共にここから御言葉に聴こうとしております。「キリストのものとされる」という意味は、具体的に、人間の罪と死の闇から復活された主イエス・キリストの新しい命に結ばれるということです。人を悩ませ、希望を失わせ、ただただ私たちに絶望を突きつける罪と死の勢力を、主が完全にのみ込んで滅ぼしてくださり、私たちを真の永遠の命で包み込み、生かしてくださるということです。そしてこの真実は、決して絵空事などではありません。それは確かに「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」として証しされている、復活のキリストの御体がもたらしている現実なのです。そしてまた、このキリストの御父なる神ご自身が導かれている、真の現実なのです。毎週の日曜日毎に捧げられる主の日の礼拝は、この父なる神の御手による、御子イエス・キリストのご復活をお祝いする喜びに貫かれていることを、共に覚えたいと思います。

さて、私たちが「キリストのものとされる」、その喜びの源である主イエスご自身のことが、このヨハネの手紙では「命の言葉」という風に1節で表現されていました。少し不思議な言い方です。これは、ヨハネによる福音書の最初に出てくる「初めに言があった。言は神と共にあった」という表現と似通っているように響きます。御子・主イエスが言葉である。しかも「命の言葉」だというのです。そして手紙の2節では、「この命は現われました。御父と共にあったが」と記されて、この手紙の書き手と、その周囲の者たちに現われた「この永遠の命」が伝えられています。つまり、イエス様は言葉であると同時に命でもあり、それも永遠の命である、と私たちに証しされていることになります。

今日、5節からお読みしました所は、この“永遠なる命の言葉“の具体的な中身、そこに告知されている私たちへのメッセージであります。別の言い方をすれば、それは主イエスご自身の言葉、あるいはもっと踏み込んで申せば、主イエスご自身の信仰に裏づけられた言葉と理解してもよいでしょう。そのような主の言葉が、この手紙を通して、今を生きる私たちに届けられているのです。

5節ではこのように綴られていました。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」。この表現も、先ほどと同様に、ヨハネ福音書の冒頭部分に似ていると感じられる方もいらっしゃるかもしれません。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:4-5)。

主イエスの信仰の言葉、それは「神は光」だということです。そしてこの光が、闇と対比的にイメージされ、闇に打ち克つものとして描かれているあたりは、ヨハネの福音書にも、手紙にも、共通しているモチーフだと言えます。いずれにしましても、主イエスが告げ知らせてくださっているメッセージは、神が光であるということです。

この、やや抽象的な言い回しの意味は、その直後に素早く、詳しく説明されていることに気づかされます。6節にはこうあります。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」。ここには、私たち自身の二つの正反対の姿が描かれています。それは、一つは光の姿、もう一つは闇の姿です。ここでの中心メッセージは、「神は光」であることだと申しました。その光に照らされて、しっかりと神に結ばれて歩む者は、ここでは「神との交わりを持っている」という表現で示されています。光の人生です。ところが、そのようには生きられない、光とは真逆の暗闇に迷い込んでしまっている姿も映し出されています。闇の人生です。そのような者は、「うそをついているのであり、真理を行っていません」とはっきり断じられています。実に厳しい言葉です。神は光であって、闇も全くない、そのような真理の一方で、もし闇があるとすれば、それは私たち人間の側にあるのだと、ここには暗示されています。

このように、神の光に照らされ、その明るみの中を歩む者の姿と、反対に人間の闇の中に閉ざされ、その暗き道を歩む者の姿という対照的な描き方は、続く7節以降にも様々な表現でなされています。ここでの光の姿とは、まとめますと「互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められ」る。また「自分の罪を公に言い表し、神が罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださる」、そのような姿です。これに対して、闇の姿というのは、「自分に罪がないと言い、自らを欺き、真理がその人の内にない」。また「罪を犯したことがないと言い、神を偽り者とし、神の言葉がその人の内にない」、そのような姿です。

以上のことから、私たちは何を理解して、受けとめることができるのでしょうか。それは、神は確かに光であるけれども、それが本当に光として見え、私自身を照らす光となるためには、私たち自身の応答がなければならない。つまり、はっきり申せば、それは互いに交わること、そして自分の罪を公に言い表して告白するということです。

さて、このような光と闇という二つの人生。どちらが望ましいかは言うまでもありません。「キリストのものとされる」とは、光の中を歩む、ということでもあります。けれども、私たちはこうしたいわば教科書的な、あるいは、祝福と裁きがはっきりと示されるような律法主義的な理解でこのメッセージを聞くならば、それはともすれば、「もう既に何度も聞いたお話」、「耳にタコができる程に聞き飽きて、もう古びた言葉」、「光の道を歩めるなら、今頃とっくに苦労なんかしていない」などといって、遠ざけてしまいたくなるかもしれません。

実際、5節ではこう言われていました。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせ」。実は手紙の書き手も、「神は光」であるという主イエスの言葉を、その時初めて知って書き送ったのではありません。もう既に何度か聞いていたはずです。その意味では過去の言葉です。しかし、もしかしたらこの著者自身も耳にタコができる程聞かされてきたこの言葉を、いったいどんな気持ちで書き綴っていたのでしょうか。もし古い言葉を、古い気持ちのままで伝える程度だったならば、どうして手紙の送り主は、これを手紙の最初の方で書き記したのでしょうか。しかも、1節の「命の言葉」の中身を言い表す言葉としての「神は光」でありました。そのことを重ね合わせるなら、やはりこの著者は、神が光であることを「命の言葉」として伝えずにはいられない気持ちだったのではないでしょうか。

神が真に光であること。それは確かに、そこに人間の応答や努力があって、初めて豊かな光を放つものであると申しました。互いに交わることと、罪の告白であります。しかし大切なのは、この順序です。自らの罪を告白した後に、互いに交わるのではありません。交わりがあってこそ、初めて罪も告白できるということです。あるいは、真の交わりの中に生かされてこそ、自らの罪も真の感謝と喜びをもって言い表すことができるようになるのです。

このことが指し示しているのは、「光は暗闇の中で輝いている」という、先ほど触れたヨハネ福音書のあの言葉です。光は闇の中でこそ輝く。光は光の中には留まっていない。光が美しい輝きとして現れるのは、闇に差し込んできて、その暗闇を明るみにさらす時なのです。山奥でのキャンプの夜、蝋燭の光やキャンプファイヤーの火がどれほど私たちの助けとなるか。先の見えない道を照らし、自分の足元や共に過ごす仲間の顔を見えるようにしてくれます。と同時に、自分が暗闇にいるということも、実は、その明かりによって初めて認識することになります。現代社会は、目覚ましい文明の発展によって夜の本当の暗闇を経験することが、逆に難しくなりつつあります。しかし、皆さんの中には、本当の暗闇とその恐ろしさを経験された方もいらっしゃるかもしれません。私もかつて、バングラデシュという国の山奥で初めて経験したことがあります。あたりは見渡す限り、文字通りの暗闇。そこには、方向感覚や動作感覚というものがなく、自分が目にしているのは真っ暗そのものであるため、それが暗闇であるかどうかも分からない程でした。ともかく闇の勢力にまるごと押し迫られて、暗闇を暗闇として理解する目というものがないばかりに、その暗闇の現実のただ中に置かれ続けたことは、次第に言い尽くせぬ恐怖となって、私を震え上がらせたことを思い起こします。

ここで暗闇というのは、私たち人間の罪を言い表しています。けれども、私たちが光の道を歩むことができるのは、私たち自身の努力や賜物によるものではありません。罪という闇の中で自らの罪を告白し、自分の努力で過去の負の遺産を清算して初めて光の道を歩めるようになる、ということではないのです。なぜならば、罪という真暗闇に埋もれた私たちは、それが真に罪であることに目覚めることができず、せいぜい自己反省に留まるものです。自らの力ですべてをなして解決していこうとする道には、神への背きが潜み続けます。そして己への驕りが次第に生じてきます。また、努力をしない者への裁きに転じてゆきます。そこには人間関係の交わりの回復もなければ、共に生きる喜びもないままではないでしょうか。

しかし、そのような堂々巡りの暗闇に向かって、光である神は、御子イエスをこの世の真の光として地上に送られました。長らく暗闇に溺れていた私たちに気づかせ、神に背を向けていた罪の殻を打ち破って、私たちとの交わりを神ご自身が、キリストを通して持ってくださいました。それはまずクリスマスの出来事であったと同時に、しかしなお、「暗闇は光を理解しなかった」この世の現実にあって主イエスは十字架にかけられてしまいました。けれども神は決して諦めなかった。交わりを断とうとはされなかったのです。御子を死人の内から蘇らせる出来事を起こされる中で、父なる神はその約束を果たしてくださいました。

順序が大切だと申した最初の交わりとは、父なる神ご自身が、まず御子イエスと御霊の働きとの交わりの中でご自身を表してくださる、その交わりのことであります。そして、そのような三位一体の神の交わりが、私たち人間の闇の現実に迫ってきて、私たちを光の道へと導いてくださるのです。この交わりに招かれ、「キリストのものとされる」喜びに生かされるとき、私たちは神の御前で真の神を知り、その光に照らされて己の罪を喜んで告白し、そしてまた、キリストにある他者との交わりに押し出されてゆく者とされます。

光の神を知るということは、闇に埋まる自分が、神によって既に知られ続けていたことを知るということであります。この「既に知られ、愛されていた」真実に私たちが気づくまで、神は忍耐され続けます。既に始まっている神の忍耐の時間は、異なる仕方で私たちに示されますが、しかし神の「既に」は、古びることがありません。

旧約の時代、かつて主なる神は、出エジプトの民に向かって「聞け、イスラエルよ」(申命記6:4)と命じられて、唯一の真なる神ご自身を表されました。約束の地カナンまでの前途多難な道のりにくじけ、神に不平不満を述べ始めたイスラエルの苦難、しかしその中に潜む神への背きという罪の現実に向かって、「聞け、イスラエルよ」と呼びかけてくださいました。私たちは「既に聞いていることだ」と言って、神の真の光を遠ざけてしまってはなりません。神は今日も呼びかけてくださっています。神の「既に」と私たちの「既に」の間には、大きな隔たりがあります。私たちを絶えず、新しく造り変えてくださる神のご意志、その救いの確かさが、主イエスと御霊との交わりの中で示されますように。そして今日も、私たちが御言葉に新しく聞く者とされ、「キリストのものとされる」歩みへと押し出されることを祈り願います。