松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年4月1日(日)
説教題「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、手で触れたもの」

説教者 朴大信 伝道師

新約聖書: ヨハネの手紙一 第1章1~4節

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。

旧約聖書: 申命記 第5章12~15節

主イエスが甦られた、晴れやかな日曜日の朝を迎えました。イエス様の復活を覚え、共にお祝いするイースターです。過ぎ去った先週の一週間は、受難週でありました。主が辿られた十字架の歩み、その苦しみの極みで発せられた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という大きな叫びは、その肉体と共に、死の闇へと葬り去られたかにみえました。―「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」。

けれども、私たちに与えられている信仰の告白(使徒信条)には続きがあります。―「三日目に死人のうちよりよみがえり」。重い墓石が動いた。墓穴には誰もいない。死者が復活した。これは単に、死んだはずの者が奇跡的に息を吹き返して甦った、というのとは少し違います。否、まるで異なります。なぜならば、主イエスは完全に息絶えて死なれました。しかしそのただお一人の死と甦りをもって、私たち全ての人間の死が死んだことになったからです。そして死をもたらす私たちの罪までもが死んだからです。ここに、死の恐怖と罪の苦しみに苛む私たちを救い出そうとする、永遠の力が働いています。十字架上でむき出しとなった御子イエスの苦しみと死は、父なる神ご自身の痛みをも伴う、愛の凝縮でありました。

さて、こうして主イエスが、深い死の眠りから永遠に目覚められて約二千年の時を経て、今日、私たちにはある一つの手紙が届けられています。「ヨハネの手紙」と呼ばれるものです。この四月から、そしてこのイースターから、私たちはしばらくヨハネの手紙を毎主日礼拝で読み、聴き、ご一緒に御言葉の喜びを受け取って参りたいと思います。

手紙。私たちは普通、「手紙」と言えば、どんなものを思い浮かべるでしょうか。仲間同士で交わす文通。親しい人とのお別れの手紙。あるいは少し改まった気持ちで感謝やお願いを伝える手紙。そしてまた、自らの最期を見据え、遺してゆく者たちに志をしたためる遺書、というのもあります。

しかし世には「闘いの手紙」という、実に厳しいものも存在します。このヨハネの手紙というのは、後に手紙の「一、二、三」と続くように、全体として三通にわたって書き綴られています。そしてこれらの手紙を繰り返し読んでみますと、その言葉と行間には、どこか決死の覚悟が秘められているようであり、著者の強い闘いの志と使命感とが随所に、私たちに向かって鳴り響いてくるような、そんな印象を抱かせます。

とはいえ、この手紙にはそれが闘いの手紙だとは一言も記されていません。ただ印象的なのは、本日の第一の手紙の冒頭を見ますと、その書き出しは読み手にやや唐突な印象を与え、著者の明確な意志や宣言が畳みかけるような勢いで綴られていることです。1:1はこう述べています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」

呼びかけや挨拶から始まることの多い通常の手紙の体裁は、ここでは採られていません。その意味で、現代の感覚からすると、この手紙には多少の違和感も伴います。しかしこの手紙が本当に、ある何かの「闘い」の下に書かれ、やがて聖書の中に収められなければならなかった程に重要な内容を含んでいるとすれば、ではそれはいつ、誰が、誰に宛てて書いたのでしょうか。そして何のために書いたものなのでしょうか。

このヨハネの手紙は「長老のわたし」から書き送られた手紙だと言います。本日は最初ですので、この手紙全体の特徴をしばらく概観する話に触れたいと思いますけれども、続く第二と第三のごく短い手紙を見ますと、実は各々の冒頭には差出人と宛名が明記されています。

「長老のわたし」。つまり長老のヨハネのことだと考えられますが、はたしてそれがヨハネ福音書の著者・使徒ヨハネと同じ人物であるのか、またこの三つの手紙全ての書き手に当たるかどうか、実は定かでありません。けれどもその内容からほぼ疑いなく言えますことは、著者は、ユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人であり、教会の指導的立場にいた人だということです。そして手紙の宛先も、自分と同じ様に改宗した同胞のユダヤ人キリスト者たちだったと考えられます。そのようなユダヤ人キリスト者の群れとしてのヨハネ教団。つまりそれは、当時の圧倒的なユダヤ教社会にあって、ユダヤ教と明らかに袂を分かった少数集団でありました。そして「イエスこそキリスト(救い主)」と告白する信仰共同体でありました。そうした新しい教会共同体の中で、まずヨハネ福音書が書かれ、後にヨハネの手紙が書かれ、さらにここにユダヤ人以外の異邦人キリスト者も加わって、その後の教会が形成されてゆきます。

ところが今や、この「イエスこそキリスト」の真の理解をめぐって、一つの重大な局面が訪れることになります。教会が、その内側から揺れ動き、惑わされ、ついには分裂に至る危機に直面してゆくことになるのです。そうした危機とそれに対する闘いの描写は、手紙の中に随所に見受けられます。例えば第三の手紙では、ディオトレフェスという人が悪意に満ちた指導者として警戒されています。また第二の手紙には、教会を惑わす者の総称として、今度は反キリストという呼び名で登場します。そして本日の第一の手紙においては、この反キリストは、より一層明白に批判されており、手紙の最後を見ますと、愛する教会の兄弟姉妹たちに向かって、「偶像を避けなさい」との言葉で結ばれています。時代は主イエスが地上から天に昇られてから約70年後、紀元100年頃です。主イエスなき時代の、信仰者たち間での混乱の姿が伺えます。

反キリスト。また避けるべき偶像とは何だったのでしょうか。偶像崇拝とは、神を真の神とせず、他の代替物に人間の誤った愛を注ぎ、それをあたかも神のように拝んでしまう信仰のことです。では反キリストと呼ばれていた者たちにとっての偶像とは、何であったでしょうか。

その手がかりは、第一の手紙4:2-3に記されています。ここの表現をまとめますと、反キリストとは、「イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表さない」者の姿でありました。別の言い方をするならば、主イエスを「まことの神」であると同時に「まことの人」として信じようとしない、不信仰の態度を指します。そうであるなら、ここで批判される彼らは一体何を信じたのでしょうか。それは極論すれば、彼ら自身の「知識」であります。これは、その後2世紀以降に勢力を誇ることになる「グノーシス主義」と呼ばれる態度への傾斜とも言えるでしょう。グノーシス、つまり人間の知識や理性こそが最上の、至高の真理であり、それはある種、積極的な目で見れば、汚れた物質世界や感情からの解放をもたらす真理でした。したがって、それはまた肉体からの解放や離脱をも志す、神秘的な精神主義とも結びついてゆきます。しかしこのような態度がやがて行き着く先は、極端な二方向に分かれます。一方では、真理をもたらす知識こそが崇高な霊的次元としてみなされるということ。また他方で、肉体は極端に卑しいものとして節制の対象となるか、または霊性はこの世の汚れた物質や肉欲には影響を受けないという考えから、逆に肉体は享楽の対象として軽んじられてしまうということになります。つまりここには、霊性と肉体の二つの次元が分離する、「霊肉二元論」の世界が起こるということになります。

さて、この霊と肉とを二つに分ける考え方が、イエスをキリストと告白する教会に、そしてキリストの体なる教会の中に入り込んで来たならば、何をもたらすことになるでしょうか。明らかであります。それはまず、神の言葉が御子イエスに受肉した出来事、すなわちクリスマスの出来事を真実として認めないということになります。神の存在は信じるけれども、その神が人となられたことなど、大して重要ではないという偏った信仰に陥ってしまいます。しかしそれだけではありません。御子の誕生だけではなく、その後の主イエスの歩み、その肉声による教え、癒しの御手、宣教の働き、そして何よりも、受難と復活の出来事も、すべて一切が仮の事柄になってしまいます。そんなことが事実であるかどうかは自分には関係ない。反キリストにとってただ大切なのは、知識の極みの中にある霊的次元、神の真理の獲得なのです。

そしてこの問題はさらに、私たち自身のあり方とも関わってきます。霊のみを真実とし、肉体を仮の宿とするところからは、自らの肉欲に内在する罪を自覚することもできないことになります。そうすると、あの十字架の出来事に隠された御父の神秘も、御子の極限の苦しみも、そして死なれた主イエスの復活の希望も、己の罪への赦しの恵みとして受け取ることが不可能ということになります。すべてが架空の出来事や、頭の中だけの出来事に矮小化されてしまうからです。そして今日、パンと杯を用いて復活のキリストの恵みに与る聖餐式さえも、軽んじられることになるでしょう。こうして手紙の著者は、これら救いの要が否定されるこの忌々しき事態に立ち向かって、闘おうとしたのでした。

ところで、けれども著者が本当に闘おうとした相手は、いま見たようなグノーシス的な反キリストの思想や人物ということになるのでしょうか?あるいは著者はここで、それらとの闘いの中に、何を真剣に見定めようとしていたのでしょうか?もし闘うための武器や武具を持ち出すとするならば、「論には論で」、すなわち誤った異端思想に対しては正統なキリスト論で対抗するということで事足りたはずでしょう。「キリストはまことの神であり、まことの人である」ことを、果敢に主張し続ければよい訳です。しかしこの手紙の著者はどのように闘ったのでしょうか。

第一の手紙をよく読みますと、次の特徴的な言い回しに度々出会うことに気づきます。
「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。(2:4)
「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。(2:9)
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。(4:20)

似通った表現形式をもつこれら三つの言い回しの前半では、正しい知識を口先だけで済ませる偽り者の態度が皮肉を込めて批判されています。「~と言いながら~者は」×3。そして後半では、その結果彼らが陥っている、矛盾した状態が明らかにされています。では、これらの定型文が示そうとする真意とは何でありましょうか。それは、3:18の「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」という御言葉に集約されていると言えるでしょう。

つまり、今ここで問題となっていますのは、彼らのキリストに対する二元論的な誤った理解そのものよりも、そのキリスト論を導いたはずの「神」のことを、彼らは「愛し」、またよく「知っている」と言いながら、しかし現実には兄弟を憎しみ、教会を戸惑わせ、ついには教会から去ってしまった、そんな彼らの「愛なき行い」なのであります。そしてそれ故、そうした真の愛が失われてゆく現実に対する、同胞への強い嘆きと悲しみ、また戒めなのでありました。

これはいったい、誰の現実を物語っているのでしょうか?「かれら」とは、誰のことでしょうか?私たちも、神の御心を充分に知っていながら、何度も過ちを繰り返す弱き者です。主イエスの復活の出来事を、喜びの知らせとして教会で幾度となく耳にしながら、また、幼い頃から慣れ親しんで来ていながら、ここで言われているような矛盾した愛なき行動をとってしまう愚かな者であります。行いをもって、誠実に互いに愛し合うことの難しさを覚えずにはいられません。

だからこそ、今日共にお読みした冒頭の一文にあらためて注目したいのであります。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」

ヨハネの手紙の書き出しが、挨拶もなしに、次々と畳みかけるような表現で始められていたのは、ここで言われている「命の言葉」が、空虚なものとならないためではなかったのか。そんな、手紙の書き手の必死の闘い、決死の覚悟の顕れであるように響いてきます。命の言葉とはつまり、神ご自身に源を持つ、神の言葉そのものです。そして神の言葉は、肉となって御子に現われました。けれども御子は私たちの人間の罪によって十字架に追いやられ、その肉体は朽ち果ててしまった。しかしこの十字架の死から、神の逆説的な秘儀によって新しい命がもたらされ、神と共にある永遠の交わりの中に私たちは招かれるようになりました。

ただしそれは、単なる絵空事の話ではありません。この希望の真実は、初めから神の元にあったものであり、私たちの耳で聞き、目で見、手で触れることができるように開かれた、普遍の真実であります。それは復活されたイエス・キリストの体と人格に触れ、私たち一人ひとりが名前を呼んで頂く出会いによるものです。

この真実を、この手紙の著者ヨハネは伝え、証しているのです。そして3節でこう言います。「わたしが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」

既に神ご自身の内に、御子との交わりがあります。それは私たち人間が招き入れられるためであり、また私たち自身も互いに招き合い、豊かな交わりをもつためです。この交わりという言葉は、本来は「共有する」というのが元の意味です。恐れずに、自らの殻を破って、異質な者との出会いを共有する。主の交わりに招き入れられた私たちが、罪贖われた者として互いに愛し合う。私たちに触れてくださる復活の主イエスの歩みに連なる者として、仕え合い、主を共に証してゆく者とされたいと願います。