松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年9月27日(日)
説教題「死に勝利する信仰」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第15章50〜58節

兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

旧約聖書: 詩編139:7~10

本日は逝去者記念礼拝として、礼拝を行っています。私たちの教会では毎年九月のこの時期、このような礼拝を行っています。礼拝後には、中山霊園の教会墓地に赴き、そこで墓前礼拝を行っています。

この逝去者記念礼拝でありますが、「逝去者記念礼拝」という名称が付けられています。このような礼拝のことを何と名付けるか。このことは、私たちの信仰の姿勢を表す一つの重要なことであると思います。

私たちの教会では「逝去者記念礼拝」と言っています。しかし以前は「召天者記念礼拝」と名付けていたこともありました。「召天者記念礼拝」、漢字を思い浮かべていただきたいと思いますが、「召天」という漢字には、二種類あると思います。

おそらく皆様がまず頭に思い浮かべるのは「昇天」ではないかと思います。訓読みにすると「昇る」(のぼる)という字に「天」と書く、そういう「昇天」です。聖書の中に、イエス・キリストが十字架の死からお甦りになり、弟子たちと四十日にわたって過ごされた後に、天に上げられます。このことを「昇天」、天に昇ると言います。

しかしこの「昇天」というのは、どちらかと言うと、自らが天に昇るという意味が強いのだそうです。したがって、キリストの教会では「昇天」という言葉はキリストに対してだけ使い、私たち人間の「昇天者記念礼拝」というのはそぐわないわけです。

もう一方の「召天者記念礼拝」というのはどうか。「召天」というもう一つの漢字は「召す」(めす)という字に「天」と書く、そういう「召天」です。この意味合いとしては、天に召された者たちを記念しての礼拝という意味を表そうとした、そういうネーミングです。ところが、中学や高校で習う漢文の読み方としては、どう考えても「天を召す」としか読めない。天を召す、つまり天をこちら側に引き寄せるということになってしまい、これもまたそぐわないということになってしまうのです。

「昇天者記念礼拝」でも「召天者記念礼拝」でもなく、「永眠者記念礼拝」という名称の付け方もあります。日本基督教団の教会歴には、今年は一一月一日になりますが、「永眠者記念日」という日があります。教会によってはその日に「永眠者記念礼拝」を行うわけです。

しかしこのネーミングに対しても、反対意見が根強くあります。「永眠」とは何か。死んだ方を「永眠」していると考えるわけですけれども、永遠に眠り続けているのか、聖書が言っている復活の目覚めはいったいどうなるのか、そういう反対意見が根強いわけです。私もまたそう思います。

そこで、私たちの教会もそうですが、このようなことに注意をしている教会では、「逝去者記念礼拝」と名付けています。死んだ方のことを「逝去者」と言う。逝去の「逝」の字は、「いく(ゆく)」と読みます。遠くに去るということです。この方は死を迎えた。私たちの手から離れて遠くに去ったのだ。そのことを表す最もふさわしい日本語として、この字が使われているということになります。

今日の「逝去者記念礼拝」にあたり、私たちに与えられた聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一の第一五章です。この手紙を書いたのは使徒パウロです。パウロからコリント教会に宛てて書かれた手紙です。コリント教会で生じていた様々な問題に対して、この教会の創設者とも言えるパウロが叱咤激励をしている、そんな手紙でもあります。様々な問題の最後を締めくくるような問題として、死の問題が取り上げられていることになります。

今日の聖書箇所は第一五章五〇~五八節です。今日はすべてを丁寧に触れる時間がありませんが、第一五章の初めから、一つの話として続いている内容になっています。新共同訳聖書には小見出しが付けられています。これは聖書にもともとあったわけではなく、便宜上、付けられているだけですが、その小見出しを追っていくと、こうなります。一節から一一節までが「キリストの復活」。一二節から三四節までが「死者の復活」。そして三五節以下が「復活の体」。

つまり、こういうことになります。キリストが十字架の死からお甦りになられた。そのキリストの復活が初穂になり、私たちがその後に続くことができるようになる。二〇節にこうあります。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(一五・二〇)。それではやがて復活する私たちは、どのような体で復活をするのか。そのことを論じているのが、三五節以下ということになります。

聖書が言わなくてもはっきりしていることは、私たち人間の体、この肉体はやがては朽ちるということです。聖書も人間が土から造られ、土へ返っていくことをはっきりと書いているわけです。それでは復活のときにはどうなるのだろうか、その問いが出てくるわけです。そのことを論じるにあたり、パウロはいろいろな表現を使っていますが、例えば四四節にこうあります。その前の四二節からお読みいたします。

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(一五・四二~四四)。パウロは「霊の体」という表現を使います。「肉の体」は朽ちる。しかし「霊の体」が復活のときに与えられるのだと言うのです。

「霊の体」と言われても、やはりはっきりとは分からないところがあります。パウロもそれ以上の説明をすることができません。私たちが分かること、いつも問題にしているのは「肉の体」のことです。医学が発達しました。その発達により、神の領域にまで達してきたなどと言われることもあります。しかし私はそうは思いません。これもあくまでも「肉の体」に関することです。私たちの肉の体を、生き永らえさせることができるようになったかもしれません。しかし私たちは老いの問題などに直面しなければならなくなりました。

肉の体を生き永らえさせることとは反対に、医学的・生物学的な発達により、望みどおりの命をさえ作り出すことができるような時代が来つつあります。しかしそれもあくまでも肉の体しか作り出せないわけです。私たちが理解できるのも、どうにかするこができるのも、あくまでも「肉の体」に関することだけです。「霊の体」は人間の力ではどうすることもできません。

人間の力でどうすることもできないからこそ、「霊の体」と言われても、どうもピンと来ないのかもしれません。パウロ自身も「霊の体」を具体的に描写することができているわけでもありません。しかし五〇節でパウロが言っていることは、私たちもよく分かるのではないかと思います。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(五〇節)。

人間ではなし得ないことがここでは言われています。そのことを続く五一節では「神秘」と言っています。神秘という言葉は、聖書に何度か出てくる言葉ですが、元のギリシア語では「ミュステーリオン」と言います。英語の「ミステリー」の語源となった言葉です。ミステリー小説というものは、最後まで犯人が分からないようになっています。しかし、しかるべき最後の時に、今まで分からなかったことがはっきりと告げられる。それがミステリーということです。パウロがここで告げている神秘も、最後の時に起こる神秘です。

五一節でパウロは「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」と言っています。「変えられる」と言っています。受け身です。私たちが自ら変えるのではなく、神がしてくださる。人間がすることではないのです。

聖書はこのようなところは、かなり気を使って丁寧に書いているところがあります。その最たるものは、キリストの復活についての記述です。例えば、このコリントの信徒への手紙一の第一五章の中で、何度も繰り返しキリストの復活のことが書かれています。

第一五章一二節以下のところを見ていきましょう。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」(一五・一二)。「キリストは死者の中から復活した」とありますが、ギリシア語の言葉遣いとしては受動態、受け身です。本来丁寧に訳すならば「キリストは死者の中から復活させられた」とした方がよいでしょう。

他の節もそうで、続く一三節「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」となっていますが、丁寧に訳すならば「死者の復活がなければ、キリストも復活させられなかったはずです」となります。

このことは一四節、一六節、一七節も同じで、先ほどお読みした二〇節も同様です。「しかし、キリストは死者の中から復活し」となっていますが、「しかし、キリストは死者の中から復活させられ」というのが元の言葉の表現です。キリストは復活させられた。誰によってか。父なる神によってです。神がキリストを復活させた。キリストの復活は神の業です。神の力がここに働いているのです。

「霊の体」になるためにも、神の力がなければなりません。五二節に「ラッパ」という言葉が出てきます。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(五二節)。

このようなラッパという表現は、聖書の中に時々出てきます。マタイによる福音書で、主イエスがこのように言われています。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」(マタイ二四・三〇~三一)。

また、テサロニケ教会に宛てた手紙の中で、パウロがこのように言っています。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(Ⅰテサロニケ四・一六~一七)。

ヨハネの黙示録では、七人の天使がラッパを吹く様子が描写されています。これらはみな終末、終わりの時の合図としての働きがあります。そのラッパの合図とともに、神の力が働いていく。そういう表現としてラッパが使われているのです。コリントの信徒への手紙一のこの箇所では、ラッパの合図とともに死者が復活し、私たちは霊の体へと変えられる。神の力によって変えられるというのです。

五三節の「必ず着る」という表現も、強い神の力を表しています。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」(五三節)。「必ず」は、神の強い意志を表す言葉です。

ルカによる福音書に、主イエスが徴税人ザアカイに出会う話が記されています。主イエスはザアカイに言われます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ一九・五)。これは弱すぎる表現で、「今日は、あなたの家に泊まることになっている」あるいは「今日は、あなたの家に泊まらなければならない」と訳した方がよいでしょう。「必ず」そうなる。「必ず」あなたがたの体はこのようになると言っているのです。

「着る」という表現も、当たり前のことですが、自分の外から着せられるのです。自分の内から力が働くのではなく、外からの神の力が働いていくのです。

このように、死者の復活も、死者が復活して霊の体が与えられることも、具体的にはっきりとしないところもありますが、何よりもパウロが言っているのは、このようなことを神がしてくださるのだ、ということです。人間の力によってではありません。自然の法則によってでもありません。そのような考えにとどまっている限り、ここに書かれていることを理解できないでしょう。これは神秘です。神の神秘です。神が徹底的にしてくださるのです。

五四~五六節にこうあります。「「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(五四~五六節)。短い文章の中に、死、とげ、罪、律法という言葉が次々に出てきます。

パウロはどのように死を理解しているのか、そのことがよく表れていると思います。私たちは死をどのように理解しているでしょうか。死ぬときに、いろいろな死に方がもちろんありますが、痛みを伴うことが多い。だから死は肉体的にかなり痛いもの、そういう理解もあるでしょう。あるいは死ぬことによって、私たちの存在が消えてしまう。死は私たちの存在を消すもの、そういう理解もあるでしょう。

パウロはどのように死を理解しているのか。「死のとげ」と言っています。そのとげが襲い掛かってくるのです。「死のとげ」におびえることもあるでしょう。「死のとげ」が襲い掛かってくることもあるでしょう。物理的な痛みをパウロは考えている、そうとも言えるかもしれません。しかしそれだけではなくて、私たちの存在そのものを傷つけてくる、そういう痛みの方をパウロは強く考えているのだと思います。

パウロはその「死のとげ」を罪と言い換えています。「死のとげは罪」(五六節)。「死のとげ」イコール「罪」です。罪が私たちの存在を脅かす。さらに「罪の力は律法です」(五六節)と言い換えています。「罪の力」イコール「律法」です。神がこのように生きなさいと言われる律法を守れない。そこに罪が生じ、罪が力を持つ。そうなると、それが「死のとげ」を持って、私たちの存在を脅かすようになる。パウロがここで語っていることは、短い言葉ですが、非常に論理的です。

しかし、大事なのは、前後しますが五四節後半から五五節です。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(五四~五五節)。これは讃美歌の一節ではないかと言われています。もうその死のとげはなくなったのだ。キリストの勝利にのみこまれてしまったのだ。その勝利の宣言を歌っている讃美歌です。死のとげの前に敗北していた私たちに、キリストによる勝利が与えられ、このような歌を歌うことができるのです。

先週の日曜日の午後、東京神学大学長野地区後援会主催の講演会が、松本東教会を会場にして行われました。多くの方が参加をしてくださり、また多くの奉仕者が与えられて、よき集会となったことを感謝しています。講演をしてくださったのは、長山道先生という方です。講演題は「復活のキリストを証しする」です。

イエス・キリストの復活を、教会は二千人にわたって信じてきたわけですが、イエス・キリストの復活は、多くの人にとって今も昔も信じ難いことである、という話から講演が始まりました。一八世紀ごろになると、合理的にイエス・キリストを理解しようとする試みが盛んになされます。イエスという男は、どんな人だったのか。そういう研究をしていく。「史的イエス」研究などと言われます。

ところが、いくら研究を重ねても、イエスという男のことがよく分からない。「史的イエス」研究によって生み出された「イエス」が、なかなか定着をしないのです。長山先生が強調をして話されたのは、このような「イエス」に対して、一向に信仰が生まれなかったということです。

それとは正反対に、教会の私たちが信じている「復活のキリスト」に対しては信仰が生まれている。不思議なことかもしれません。昔も今もこれからも、復活のイエス・キリストを信じている者がいる。イエス・キリストに対して感謝をし、讃美をささげ、礼拝をしている。そういう者たちが起こされている。長山先生が講演で強調されていたのは、何よりもそのことです。

今日の聖書箇所の言葉で言うならば、五七節のところです。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(五七節)。パウロは読者に奨めているのです。イエス・キリストによる勝利を感謝しよう。このようなことをしてくださった神を讃美しようではないか。これが、教会の私たちの信仰なのです。

この神秘を知り、信じ、そして動じることなく、主の業に励みなさいということが、最後に言われます。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(五八節)。この言葉を噛みしめるだけで、もう特に解説も必要ないと思います。

昨日、南信分区の信徒大会が行われました。お話をしてくださったのは、新生釜石教会の柳谷雄介牧師です。震災の津波によって被災をした教会の牧師です。震災の話を伺い、写真、映像をいくつも観させていただきました。被災をした教会がその後どのように歩んできたのか。私たちにとっても興味のあるところです。

しかし柳谷雄介牧師の話は、悲壮感漂うものではありませんでした。震災後の歩みは労苦も多かったでしょう。しかしその表情や話のどこかに、明るいところがあった。特に音楽の賜物が与えられている方でありますから、讃美の喜びに生きてきたところがあります。あの震災でさえも動じずにいられる。主の業に励むことができる。私たちの労苦は、決して無駄にならないのであります。