松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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2015年5月24日(日)
説教題「カリスマ・クリスチャン」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第12章1〜13節

兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

旧約聖書: 詩編 第51編12~14節

今日の説教の説教題を「カリスマ・クリスチャン」と付けました。全部カタカナであったためでしょうか、面白い説教題ですねと言われました。先週一週間、教会前の看板にこの説教題が掲げられていたわけですが、教会に来るたびに、車で教会の前を通るたびに、我ながら面白い題を付けたものだと思っていました。「カリスマ・クリスチャン」ではなく、「カリスマ・キリスト者」と付けようかと思ったのですが、どうせなら全部カタカナにすることにしました。

さて、「カリスマ」という言葉をご存知でしょうか。知っておられる方もあると思います。世間一般でも、まれにカリスマという言葉が使われることもあります。その場合は、何か特別な才能を持っていること、という意味で使われます。しかし聖書の持っているカリスマという意味は違います。ご存じなければ、カリスマというギリシア語の言葉と共に、その意味を覚えるとよいと思います。

カリスマの意味をお伝えするために、カリスマに関する話を一つしたいと思います。あるベテランの牧師が、結婚をする神学生の男女に、お祝いの言葉を送りました。そのお祝いの言葉とはこうです。「カリスマ牧師になってください」。結婚式を挙げ、このお祝いの言葉を受け取った神学生夫婦は、この牧師にお礼の手紙を書きました。その手紙の中に、「私たちがカリスマ牧師だなんて、それはとんでもないことです」というようなことを書いた。そうしたらこの神学生夫婦はこの牧師から叱られてしまったのだそうです。「もっと聖書の勉強をしっかりしなさい」、と。

どういうことでしょうか。最近、世間一般で使われるカリスマという言葉の意味は、辞書にも記されていますが、「超人間的・非日常的な資質。英雄・預言者などに見られる」ということです。例えばナポレオンは「軍事カリスマ」を持っていたと評されます。ナチス・ドイツを率いたヒトラーは「雄弁カリスマ」があった。雄弁な演説によって人々は惹きつけられてしまったのです。主イエスも同列に並べられ、「預言カリスマ」があったと評価されます。つまり宗教的な特別な才能があったと見なされているわけです。

私はあまりよく知らないのですが、ついこの前は「カリスマ美容師」などという言葉がはやったようです。凄腕の美容師とでも言い換えたらよいでしょうか。結婚をした神学生夫婦もそのように受け止めてしまった。カリスマ牧師だなんて、私たちはそんな才能がない、とんでもないことです、と言ってしまったわけです。

しかし元来のギリシア語の意味はこれとは違います。新約聖書で使われている「カリスマ」の意味は、「恵みの賜物」とか「神から賜る力」という意味でした。カリスマはもともと「カリス」という言葉から派生した言葉です。カリスは恵みという意味です。神からの恵みによって与えられたものがある。それがカリスマなのです。

そういうもともとの意味に新たな意味を付け加え、マックス・ウェーバーという社会学者がカリスマという言葉を使った。以降、少し意味合いが変わってしまったのです。しかしもともとはカリスマとは神からの恵みの賜物であり、キリスト者ならば誰でも与えられている何らかの賜物のことを意味していたのです。

新約聖書の中でもカリスマがいろいろな形で用いられています。本日、私たちに与えられた聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一第一二章一~一三節ですが、この中にもカリスマという言葉が出てきます。その箇所に触れる前に、まずコリントの信徒への手紙一の中でカリスマという言葉が用いられている箇所を、順に追っていきたいと思います。

まずは冒頭のところ、第一章七節です。「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(Ⅰコリント一・七)。「賜物」と訳されている言葉がカリスマです。「その結果」とは何かと言うと、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」(一・五)ということです。教会に属しているあなたがたは、あらゆる言葉や知識というカリスマが与えられ、何一つ欠けることがないと、この手紙を書いた使徒パウロは言うのです。

続けて、第七章七節のところです。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」(七・七)。この箇所では、結婚すること、しないこと、結婚生活について、パウロは語っています。人それぞれ生き方が違うことが言われていますが、それはそもそも与えられている賜物、すなわちカリスマが違うからだと言うのです。カリスマが異なれば生き方が違うのだとパウロは言います。

そして今日の聖書箇所の第一二章四節です。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」(四節)。カリスマはいろいろだとパウロは言います。この節以降、いろいろなカリスマのことが語られています。「知恵の言葉」(八節)、「知識の言葉」(八節)、「信仰」(九節)、「病気をいやす力」(九節)、「奇跡を行う力」(一〇節)、「霊を見分ける力」(一〇節)、「種々の異言を語る力」(一〇節)、「異言を解釈する力」(一〇節)というように、いろいろなカリスマのあることが語られていきます。

今日の説教では、これらのことが具体的にどんなことを意味しているか、詳細な説明をすることができません。しかしこれらのカリスマは、世間一般の才能や能力のことではなく、教会の中で生かされ、用いられている賜物であることが分かります。

しかもパウロがここで特にコリント教会の人たちに向かって言いたいことは、いろいろなカリスマがあるかもしれないけれども、その出所は同じであるということです。「同じ」「唯一」という言葉が繰り返し使われています。

「それをお与えになるのは同じ霊です。」(四節)。「それをお与えになるのは同じ主です。」(五節)。「すべてのことをなさるのは同じ神です。」(六節)。「同じ“霊”によって」(八節)。「その同じ“霊”によって」(九節)。「この唯一の“霊”によって」(九節)。そしてすべてをまとめるように、「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」(一一節)と言われているのです。これがパウロのもっとも言いたいことです。

このような違うカリスマを与えられていながらも、第一二章一二節以降では、体の話へと移行していきます。体の部分一つ一つは違えども、一つの体になっている。二七節では「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と言われます。二八節以降、話がさらに具体的になり、教会の中に神が「使徒」「預言者」「教師」「奇跡を行う者」「病気をいやす賜物を持つ者」「援助する者」「管理する者」「異言を語る者」というように、次々とカリスマが列挙されています。

そして第一二章の最後のところにこうあります。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(一二・三一)。ここで使われている賜物は「カリスマ」です。このカリスマを受けるために、第一三章に入り、愛の話へと展開されていくのです。

このようにカリスマというものは、教会に生きる人それぞれに与えられているものであり、しかも皆が違うものが与えられています。それゆえに人の生き方も違ってくる。人のできること、あるいはできないことも違ってくるのです。

今日の説教題「カリスマ・クリスチャン」にあるように、私たちは皆が違うカリスマを持っています。いや、与えられています。しかし違うものが与えられながらも、私たちはバラバラになることはありません。同じ原点を持っているからですが、その原点にあるものはいったい何でしょうか。

今日の聖書箇所の第一二章三節にこうあります。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(一二・三)。

最初に書かれている「イエスは神から見捨てられよ」という言葉が何を意味しているのか、これには諸説あるようです。ここではそのことに深入りはしないでおきます。「イエスは主である」という言葉の反対のことを意味する言葉であると理解すればよいでしょう。特に大事なのは後半です。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない」、その意味を深く心に留めたいと思います。

洗礼を志願される方がありますと、私と一緒に学びをしますが、その学びの中でこの言葉は、必ず一回は読むことになります。「イエスは主である」というのは、「イエスというお方は私の救い主です」と告白することです。与えられているカリスマが違ったとしても、これは皆が共通のことです。聖霊によって導かれて洗礼を受ける。それは聖霊による。私の力で信じて洗礼を受けるのではなく、一見そうであるように思えたとしても、聖霊の導きによるものなのだ。その同じ霊によって、それぞれに違う賜物が与えられている。すべての力の源は一つであり、出所が一つなのです。

今日の聖書箇所の最後である第一二章一三節にも、同じことが書かれています。「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(一二・三)。賜物や生き方が違えども、皆が洗礼を受け、一つの霊を「のませてもらった」と表現されています。文字通り、水を飲むように霊を飲んだのです。与えられたカリスマは違っても、同じ霊を飲んだことは共通なのです。

今日はペンテコステの礼拝を行っています。ペンテコステとは日本語で言うと聖霊降臨日です。聖霊が注がれた日。二千年前のその日の出来事は、使徒言行録第二章に記されています。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録二・四)。ペトロが使徒たちを代表して説教を語ります。語った説教の内容は、十字架にお架かりになり、死なれ、復活したイエスこそが主であり、メシアであるということです。

それを聴いた者たちは心を打たれ、どうしたらよいかと問います。ペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」(使徒言行録二・三八)と言います。実際に洗礼を受けた者の数は、三千人ほどでありました。聖霊が注がれた日、このような出来事が起こったのです。この日、説教が語られ、聴かれ、洗礼を受ける者が現われ、その後、教会生活が営まれるようになった。だからこの日を教会の誕生日と言う人もいます。「イエスは主である」との信仰告白と共に、教会の歩みが始まったのです。

その後、教会の歩みは二千年にわたって続いてきました。時代や場所を超えて、変わって来たこともあるかもしれませんが、その本質は最初と同じです。聖霊によって「イエスは主である」と告白した者が洗礼を受ける。これは誰もが共通なことです。そのような共通の告白によって教会に加えられた者に、カリスマが与えられる。カリスマは人それぞれ違います。生き方も違います。しかしその異なるものが、教会において一つに結ばれる。カリスマが生かされ、用いられ、一つの体であるキリストの体が形成されている。

自分のカリスマがいったい何であるか、それをはっきりさせる必要もない。カリスマの優劣を競い合う必要もない。たくさんの与えられているカリスマが生かされていればそれでよい。一人のカリスマ、一部のカリスマがみんなのカリスマになっていく。教会というところはそういう場所です。キリストの愛が見えてくる場所です。そのように形成される教会が、キリストの体なる教会なのです。