松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会


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2018年3月25日(日)
説教題「原点に返ろう」

説教者 本城仰太 牧師

新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第1章4~9節

わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

旧約聖書: 申命記26:1~15

今日の説教の説教題を、「原点に返ろう」と付けました。返るという言葉には、主に二つの漢字があります。「返る」と「帰る」です。どちらにも共通の意味合いもあるでしょうけれども、違いもあります。

ある人が、この漢字の違いについて、このように言っています。「帰る」というのは、自分のちょっとした居場所へ帰ることであり、「返る」というのは、自分の本当の居場所へ返ることだ、と。この人が言っていることは、「帰る」と「返る」の厳密な定義ではないかもしれません。しかしなるほどとも思わされます。

「帰る」というのは、家に帰るとか、会社に帰るとか、故郷に帰るとか、いろいろな所へ帰っていくことを言うことができます。確かにそれらは私たちの居場所です。そういう場所へ帰って行くわけですが、この人が言うには、ちょっとした居場所なのです。今住んでいる家も、ずっと住み続けるわけにはいかない。今務めている会社も、ずっと自分の居場所があるわけではない。故郷もなくなってしまう場合がある。その意味で、ちょっとした居場所なのです。

しかし「返る」といった場合はどうでしょうか。本当の自分がいるべき場所へ、原点へ返っていく時に、この漢字を使います。たとえ自分の人生にどんなことが起こったとしても、その原点は変わらない。原点からずれてしまっても、そこへまた返って行くことができる。そういう意味合いがあります。それゆに、今日の説教の説教題を、「原点に返ろう」というように付けました。

本日、私たちに与えられた聖書箇所に、教会の原点があり、信仰者の私たちの原点があります。この一年にわたって、コリントの信徒への手紙二から御言葉を聴き続けてきました。先週、その最後の箇所から御言葉を聴いたわけですが、一年間御言葉を聴き続けて、どのような印象を持たれたでしょうか。

コリント教会の創設者であり、使徒であるパウロが、コリント教会へ宛てて書いた手紙です。新約聖書には、コリントの信徒への手紙一と二という形で、二つの手紙として収められていますが、新約聖書学者の研究によれば、実際にはもっとたくさんの手紙が書かれたようです。第一の手紙と第二の手紙を読む限りでは、コリント教会には問題が山積みであったようです。今日の聖書箇所以降、問題点を次々とパウロが指摘していきます。

これらの山のような問題を、もし私たちがパウロのように抱えているとしたら、私たちはどうするでしょうか。山のような問題です。巨大な山がそびえ立っています。その山に私たちは挑むでしょうか。普通ならば投げ出したくなるかもしれません。
ところがパウロは決して諦めないのです。私は以前には不思議に思っていました。普通なら呆れ果てて、諦めたり、教会と縁を切ったりするでしょう。ところがパウロは諦めなかった。なぜでしょうか。教科書的な答えをすれば、パウロはコリント教会が神の教会であり、コリント教会を愛していたから、と言えます。私も以前からそのことはよく分かっていました。

しかしこの一年間、コリントの信徒への手紙二から説教をし続けてきて、パウロがコリント教会を愛するその愛が、なんとなくわかってきたように思います。今から一年と少し前、教会員の皆様に私の辞任を表明しました。少しおかしな表現かもしれませんが、辞任を表明し、コリントの信徒への御言葉を説きながら、私の松本東教会への愛も深まっていきました。もちろん、それまで愛していなかったわけではありません。その愛が深まっていた。それが今の実感です。教会もまた愛の対象なのです。

今日の聖書箇所は、愛する教会がいったいどうあるべきか、教会の原点が書かれています。いつでもそこへ返って行くことができるし、教会は返らなければならない、その原点が書かれています。コリント教会の原点であり、松本東教会の原点であり、すべての教会の原点がここにあります。

問題が山積みの教会です。何から始めるべきでしょうか。すべての課題をリストアップしていくことでしょうか。パウロは、まず感謝から始めるのです。今日の聖書箇所の四節のところにこうあります。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。」(四節)。

パウロが感謝しているわけですが、パウロは何でもかんでも、やみくもに感謝しているわけではありません。感謝するからには、感謝すべき内容や状況がきちんとあるわけです。それが続く五節に記されています。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」(五節)。

「言葉」と「知識」が感謝すべき内容です。コリント教会にはこれらが賜物として与えられていました。ところが、この与えられた賜物が問題を引き起こしていたのです。今日の説教では具体的な話しはできませんが、「言葉」や「知識」の問題が、今日の聖書箇所以降のところにでてきます。

例えば、礼拝の中で「言葉」が乱れていた。きちんと神の言葉が語られて、その言葉が神の言葉として聴かれるべきなのに、それがうまくいっていなかった、という問題が挙げられています。「知識」もそうです。知識が人を高ぶらせ、知識のない人を裁いてしまうような状況が起こっていた。本来なら感謝すべき賜物のはずが、そのような問題の引き金になっていたのです。

こういう問題が起こっているとしたら、どのように対処すればよいでしょうか。パウロがここでしている対処方法は明確です。神からの賜物であると感謝して受け取り直すことです。しかも六節にこのように続きます。「こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので…」(六節)。

キリストを証しすること、つまり伝道です。神から与えられた賜物が証し、伝道へつながっていくことが語られています。コリント教会は神から賜物として、「言葉」や「知識」が与えられていました。本来ならば、その賜物を豊かに用いて伝道すべきところ、その賜物が逆に問題を引き起こしていた。教会の伝道と教会で生じる問題は、紙一重とも言えます。

例えば、ごく簡単なことですが、こんなふうに考えてみていただければよいと思います。牧師の中には、とてもおしゃべりが上手な方がいます。一緒に話をしていると楽しい。お茶を飲んでいると場が和む。そういう賜物を持っている方がいます。その賜物は、確かに伝道になるでしょう。しかし下手をすると、礼拝に行くよりも、その牧師と個人的にお話をした方が自分の益になると思われることもあるかもしれません。やり方を誤ってしまうと、その賜物が逆に問題を生じさせてしまいます。

コリント教会も、「言葉」と「知識」が賜物として与えられていたはずでしたが、問題を引き起こしていました。パウロはここで感謝をもってその賜物を受け取り直すように、と言っています。伝道のための賜物としてです。「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」(七節)という言葉が続いていくのです。

七節の後半から八節にかけて、こうあります。「わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」(七~八節)。主イエス・キリストの現れとは、終わりの日の終末のことです。

終末をどう捉えるか。今の私たちにとっても大きな問題でしょう。パウロや初代教会の人たちは、終末が今すぐにでもやって来ると考えていたようです。主イエスは天に上げられた。しかしすぐにまた来てくださる。パウロは必ず自分が生きている間に終末が来ると信じ切っていました。

ところが、なかなか終末がやって来ません。終末が遅れていることについて、考え直さなければならなくなります。別の手紙にはこのようにあります。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペトロ三・八~九)。

神が終末まで忍耐して待っていてくださることが語られています。今日の聖書箇所では、終末まで主イエスが何もしておられないのではなく、しっかりと支えていてくださる、その約束が語られています。

私たちがよく使う表現に「守る」というものがあります。「礼拝を守る」「信仰を守る」「教会生活を守る」などと使います。独特の表現です。確かに礼拝も信仰も守るものです。私たちが務めて行い続けること、それを「守る」というように言っている表現だと思います。

しかし聖書が言っているのは、人間のそういうコツコツ積み重ねる努力ではありません。九節に「神は真実な方です」という言葉があります。これは、コリントの信徒への手紙一と二で、何度か出てくる表現です。あなたがたが真実である、というようには出てきません。神が真実である、と出てきます。その真実なる神の支えによって、私たちは礼拝も信仰も守ることができるのです。

今日はこの礼拝で、洗礼式、転入会式が行われました。すでに教会員だった者は、何と言って洗礼を受けられた方、転入会をされた方をお迎えするでしょうか。「ようこそ、私たちの教会へ」と言って、お迎えします。

そのお迎えする教会には交わりがあります。どんな交わりなのでしょうか。九節にこうあります。「この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(九節)。ここに書かれているように、教会には主イエスとの交わりがあります。主イエスがおられる、あなたも主イエスとの交わりの中へようこそ、と言ってお迎えするのでしょう。

大事なのは、九節の終わりの言葉です。「招き入れられたのです」。自分から入っていったのではありません。今日、メンバーに加えられた者も、ずっと前からそうだった方も、皆がこの交わりへと招き入れられたのです。

これが私たちの原点であり、教会の原点です。私が八年前に、前任の川﨑先生から言われた言葉があります。「本城先生は恵まれた教会から伝道者の歩みを始めることができますね」。私も後任の方に、同じ言葉を言うことができます。本当に恵まれた教会だからです。

今日の聖書箇所には、恵まれた教会の歩み、教会の原点が記されています。礼拝に集い、御言葉を聴き、与えられた賜物を感謝し、伝道し、主イエスに支えられ、真実な神に支えられて歩む、これが教会の原点です。

松本東教会として、この原点から離れずに歩んでいただきたいと思います。もし離れるようなことがあっても、ここに返って来ていただきたいと思います。皆さんお一人お一人が、教会に招き入れられた者として、健やかな信仰の歩みを送っていただきたいと思います。