松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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私たちは裁かれるのですか?

 聖書を読んでいると、しばしば裁きのことが語られています。ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂(ローマ法王を選ぶコンクラーベが行われた場所です)の天井には、有名な最後の審判の絵も描かれています。聖書には、重要なことの一つとして、裁きが語られていますが、私たちはこの裁きをどのように受け止めたらよいでしょうか? 自分も神によって裁かれることがあるのでしょうか?

 まずは裁きのことが書かれている聖書箇所に目を留めたいと思います。旧約聖書の出エジプト記から申命記にかけて、たくさんの戒めが出てきます。イスラエルの民は、神の導きによって、エジプトでの奴隷生活を抜け出すことができたわけですが、救われた民として、イスラエルの民が守るべき戒めが与えられました。それらの戒めを守るかどうかを問われたのです。「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。」(申命記11:26-28)。言われていることは、非常に単純です。神に従えば祝福、従わなければ呪いなのです。この呪いを受けるというのが、裁かれるということです。イスラエルの民は、残念ながら神の戒めに従うことができず、呪いを受けてしまいました。国が滅ぼされるという災いも起こりました。なぜ国が亡びたのか、旧約聖書が語っているのは、神の裁きを受けたからだということなのです。

 同じような裁きの考え方は、新約聖書にも引き継がれました。主イエスも、祝福と呪いの話をされました。すべての民族を裁く話です(マタイによる福音書25:31-46)。右側に祝福された羊、左側に呪われた山羊が集められます。違いは何でしょうか。最も小さい者の一人にしたことが問われ、裁きの結果を左右するのです。「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタイ25:46)。

 このような裁きの話を聞くと、恐ろしく思うかもしれません。神は正しいお方です。神は人間の不従順、罪を曖昧になさることはしません。罪は罪としてきちんと裁いて、罪をなくされる方です。しかしその罪をどのように対処されたのかが重要なポイントです。私たち人間の罪を、私たち自身に負わせることはせず、ご自分の独り子に負わせられました。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(ヨハネの手紙一2:1-2)。イエス・キリストが私たちの罪を背負って、代わりに裁かれてくださいました。だから私たちは赦される。その確信を持てます。裁きは確かにあります。最後の審判も確かにあります。しかしイエス・キリストを信じる者たちは、無罪が確定しています。だから、裁きをもはや恐れる必要はないのです。

・申命記11:13-32(旧p.299)
・マタイによる福音書25:31-46(新p.50)
・ヨハネの手紙一2:1-2(新p.441)

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