松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

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信じるとはどういうことですか?

 信じるということはどういうことでしょうか? このことを考えるために、実際に信じた人を挙げたいと思います。聖書の最初の方に出てくる信仰者にアブラム(後のアブラハム)という人がいます。この人は75歳になっていたにもかかわらず、神さまに命じられて、一家を引き連れて旅に出ます。その際に、「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記15:7)という約束が、神さまから与えられていました。しかし子孫といっても、アブラムには子どもがいませんでした。再び神さまから同じ約束がなされました。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(創15:4)。それに対し、「アブラムは主を信じた。主はそれを神の義と認められた」(創15:6)とあります。アブラムはこの先、どうなるかまったく分からない中で、信じたのです。神がその信仰を義(つまり「ただしい」)と認めてくださったのです。

 主イエスの復活をめぐっても信じることが問われています。主イエスの12人の弟子のうち、ユダはすでに自殺をしていなくなっていましたが、残りの11人のうち、トマスを除く10人が復活の主イエスにお会いします。どういうわけか、トマスだけがその場に居合わせませんでした。他の10人が主イエスにお会いした喜びにいる中で、トマスだけは「あの方の手の釘の後を見、この指を釘跡に入れて見なければ…わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)と言います。しかし復活の主イエスがトマスの前に現れてくださり「信じないものではなく、信じる者になりなさい」(20:27)、「見ないのに信じる人は、幸いである」(20:29)と言ってくださいました。

 私たちも見ないで信じるようにと招かれています。残念ながら、神さまや主イエスを物理的に目で見て確認することはできません。もし目で見ることができたのなら、私たちは信じる以外に選択肢がなくなってしまいます。そうなると、もはや神を「信じること」ではなくなってしまいます。それはただ単に神を「確認すること」にすぎません。神は私たちに自由を与えてくださいました。神を信じるか、信じないかの自由です。信じるということは、絶対にそうであると確証できないことを、それにもかかわらず信じるということなのです。

 聖書は信じる者の幸いをさらに語っています。新約聖書の後ろの方に「ペトロの手紙一」という書簡があります。これは主イエスの弟子のペトロによって書かれたのではないかと言われている手紙です。ペトロは主イエスと共に過ごし、直接目で見ていましたから、信じるのは当然であるかもしれません。しかしペトロは主イエスを見たことがないのに信じている人たちを見て、驚いています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(ペトロ一1:8)。アブラムのように、信じる者は神からの救いの約束を信じ、今それはまだ手にしてしないかもしれませんが、喜びのうちに生きることができるのです。

・創世記15:1-21(旧p.19)
・ヨハネによる福音書20:24-29(新p.210)
・ペトロの手紙一1:3-9(新p.428)

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