松本教会 プロテスタント 日本キリスト教団松本東教会

facebook.png


HOME > オリーブの会テーマ一覧 > オリーブの会(なぜイエス・キリストは死ななければならなかったのですか)

なぜイエス・キリストは死ななければならなかったのですか?

 イエス・キリストが神の子でありながら、人間としてお生まれになってくださいました。キリスト者は、イエス・キリストが神の子であり、また同時に、まことの人であると信じています。神の子であるイエス・キリストが人間としてお生まれになったことの意味が大きいわけですが、人間として生まれたからには、死ななければなりません。なぜ、イエス・キリストは人間となられ、死なれたのでしょうか。

 それは私たち人間の救いと大きなかかわりがあります。聖書は私たち人間を罪人と見ています。神は罪を軽く見られません。罪はどうにかして解決されなければなりません。罪を放置しておくことは、人間のためにならないからです。それではどのようにして、罪の問題が解決されるのでしょうか。

 まずは旧約聖書の考え方を見て行きたいと思います。レビ記には、罪を犯した場合の処置の仕方の取り決めが記されています。「だれかが罪を犯すなら、…彼はその罪を犯したことを告白し、犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる。祭司は彼のためにその犯した罪を贖う儀式を行う。」(レビ記5:1, 5-6)。ここに記されている罪の解決の仕方は、自己責任なところがあります。祭司の助けは借りますが、自分が罪を犯したので、家畜(財産)を献げ、自分で痛みを負い、罪を赦してもらうのです。その他にも、イスラエルが神から離れて罪を犯し続けたため、国が滅ぼされてしまったとイスラエルの人たちは考えます。これもまた自己責任なところがあります。

 しかしこのような解決の仕方をいくら続けたとしても、根本的な解決には至りません。人間の罪はそれほど深いのです。もしイエス・キリストがおられないなら、今も自己責任のままだったでしょう。そして自分で自分の責任を負い切ることができないままの状態が続いていたでしょう。

 新約聖書は、旧約聖書とは全く違う罪の解決方法を示します。新約聖書の至るところに、そのことが記されていますが、最も端的にまとめた箇所の一つがこうです。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Ⅰヨハネ2:1-2)。イエス・キリストの十字架こそが、神の子が犠牲として献げられた唯一にして最大の犠牲です。旧約聖書の犠牲とは根本的に違うものです。だから私たちはもはや自己責任ではなく、罪を赦していただいている。そのことを信じるのです。

 主イエスがこれから十字架にお架かりになろうとしている直前に、イメージ豊かな言葉でこのように語られています。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)。一粒とは主イエスのこと、多くの実とは私たちのことなのです。

・レビ記5:1-26(旧p.167)
・ヨハネによる福音書12:20-26(新p.192)
・ヨハネの手紙一1:5-2:2(新p.441)

ページの先頭へ